本日の呟き121116

まどマギ』の鹿目まどかって、両親が死んでない本田透(『フルーツバスケット』)だよなあ……


まどかの優しさや思いやりというのは、本編でさやかちゃんにも断じられているが、当事者ではなく自らは傷を負っていないからこそのもので(この部分には、さやかちゃん自身がかつて自分のことをそういうものがわからない幸せバカだと言っていたことも効いてくる)、そこに上部だけの底の浅さや無責任さを感じたり、自分が当事者となって傷みを負った時に同じことを言えるのかどうか確かめたくなるというのは割と自然な受け取りかたなのではないかと思う。先にも述べた本編でのさやかちゃんからの弾劾や、蛸壺屋の二次創作『隣の家の魔法少女』などはまさにそういった見方に沿った結果としては極めて分かりやすい反応と言える。

一方、フルバの本田透の優しさや思いやりというのはまどかと同じように親に育まれたものであるが、彼女自身が両親を喪い生活に困窮しマイノリティとしての差別も受ける不幸の当事者であるため、大差ない言動であってもまどかのそれとは重みが違うとみなされてか断罪はされにくい(逆にこの本田透というキャラクターの用意周到さにより、作品自体に不信を覚える向きもある)。

鹿目まどかを、何も知らない何もしないくせに知ったことを言うなと断じ、痛みを知り、知って傷つきなお優しくあるような本田透のようなキャラクターを持ち上げるのは簡単だし、それは一面の真実でもあるように思う。

しかし『まどマギ』に関しては、鹿目まどかという、自らは血を流さない、当事者としての傷みを知らない無垢な傍観者の感じる他人の痛み、それに対する救いたいという純粋な善意や感情への憧れや信仰を描くことこそが重視されているように思う。彼女が傷つかないこと、汚れないことというのは作品の要請であるのだ。

亀やんさんはこうした無知で無垢、傷も汚れもないまどかを子どもだと称し、まどマギを子どもの願いが叶う物語であると言っていた。

そんな子どもを守りたいと思うと同時に汚したいと欲望し、そのアンビバレンツに愉悦しているのがまどかファンか。