『結城友奈は勇者である-勇者の章-』最終回感想
濃厚過ぎる最終回でありました。
極限までキャスト数や状況説明、戦闘シーンを削っても、明らかに尺が足りていないのではというところに、これでもかとぶち込まれる描きたかったであろうこと、描くべきと判断されたところが溢れまくっていましたね。
尺、もうちょっと尺! というのが視聴直後の感想の1つではありましたが、語られた内容、描かれた勇者部の姿には正直、何も語る言葉はなく、ただ黙って勇者部に祝杯を挙げるのみでありました。
乾杯。 #yuyuyu pic.twitter.com/3qNcMdz7qv
— 雪見バーガー (@H926) 2018年1月5日
個人的には今は何も言うことがなく、ただただいい気持ちで呑んでいる。ありがとうございました。 #yuyuyu
— 雪見バーガー (@H926) 2018年1月5日
呑みながらTLを眺めつつ、改めて振り返ったりもしたのですが、振り返るともう良さしか感じられなくて、尺不足の不満もどこかに行ってしまいました。アルコールのせいもあったと思いますが、1期と同じく、設定などでの見えない部分、分からない部分もありましたが、それは相変わらず主人公の友奈達勇者部にも分からない部分であって、神世界ではなく、彼女達の物語を見るにあたっては、分からなくても問題なく、寧ろ分からないところで寄り添える部分もありますし、その点でも個人的には不満は特にないです。後からファン同士でああでもないこうでもないと考えたり話し合うのも、それはそれで楽しいですしね。
#yuyuyu 世界とか大きい話についてはこういう部分もないわけではないわけでもなくはないけれど、分かった範囲での積み重ねやら何やらへの感動もあったけれど、友奈と勇者部があの部室でのケンカについて互いに謝って仲直りしてくれたっていうのがやはり自分には全てで、それだけでもう大満足ですよ。 pic.twitter.com/s13UH8czOV
— 雪見バーガー (@H926) 2018年1月5日
そしてやっぱり、自分が求めていたもの、見たかったものがそこにあったので、ほんと、何にも言うことなかったのですよね。東郷さんが「友奈!」って呼び捨てにしたり、友奈と夏凛ちゃんが互いにごめんと謝って、部室でのケンカも仲直りして。互いに助けた助けられたなんて負い目がどこにもなくて、ただの対等な友達の関係だけがそこに描かれていて。本当に、嬉しかったんですよね。
1期の時、こんな感想を書きました。
個人的にこの作品は、世界からシステムから、設定とかストーリーから何から何までもが、毎回のEDの下校風景と最終回の下校風景と最終回のEDの下校風景の変化と対比の為にあったというか、結局その為だけに使われたって印象で、東郷さんの車椅子を押して介添えしていた友奈が、逆に東郷さんに介添えしてもらって車椅子を押してもらう、一緒に立って並んで歩くというその変化と、どの立場であっても変わらない2人と勇者部の楽しそうな様子と笑顔っていう、ただそれだけが描きたかったんじゃないかと思ってて、それは世界がどうとか身体障害がどうとか、救われて治ってハッピーエンドでよかったねとかそういう話ではなくて、単に、どちらかと言えば守る側と守られる側、助ける側と助けられる側、手を引っ張る側と引っ張られる側といったような、どこにでもある、完全に対称ではない友達関係の問題と問題のなさを強調しているだけで 、勇者としてのあれこれは部活動と、それを巡っての友達同士の真剣な喧嘩でしかなくて、どこか非対称だった友達関係や姉妹関係が対称的に、対等な関係になっていく過程でしかなくて、結局のところ、この作品は友奈と東郷さん、勇者部の皆の友情と青春の物語でしかないと思ったし、そういうものとして見て、凄く好きだったなあと思うのです。
2期も変わらず、そういう作品であって。大好きだなあと、改めて思いました。
1期より精神的につらいケンカを勇者部の皆はしましたけれど、でもそれは、本音をぶつけあって、お互いがお互いが思ってのことだというのも分かり合っていて、その上で、だったので、雨降って地も固まって。
欲を言えば後日談を延々と、出来ればアニメで、勇者部所属的なゆるふわなのでもいいですけれど、普通に時間が進んでいく、ホームドラマとしての日常アニメを毎週届けるくらいして欲しいのですけれど。
ともあれ、ほんと何も言うことはないです。
ただただ、素晴らしい先品を時間をありがとうございましたと、それだけです。
スタッフ、キャストの皆さん、そして勇者部の皆に最大限の拍手を。
オマケ。Twitteの #yuyuyu タグで気になった実況・感想ツイート群
このやばいフラグからにぼっしーを助けたのがそのっちなあたり…泣くぞ? #yuyuyu pic.twitter.com/4RyKIOaMnF
— 夜叉神ここテン(cv佐倉綾音) (@yesLnoT) 2018年1月5日
同じ箇所を切られた瞬間にハッ……!!と息して口に手を当てて観てました。
— やーふみ (@YaFumizzz) 2018年1月5日
頼む…前に出過ぎないでくれ…
と思いながら。
君までいなくなったらどうしたらいいのか分からなくなる#yuyuyu pic.twitter.com/hY3e2QrIsp
そのっちがにぼっしー守るシーン
— いぶしろー (@otal_2) 2018年1月5日
銀とそのっちの連携を思い出して泣けてくる
「一人で前に出すぎちゃダメだよ」このセリフの深みがすごい #yuyuyu pic.twitter.com/yLy3x95QKq
「その攻撃は覚えた!」
— 僧侶部部長@ありがとう勇者部 (@souryobu_6869) 2018年1月5日
勇者に二度同じ手を使うことはすでに凡策なんだよ! pic.twitter.com/CVjIUT4HpN
にぼっしーが天の神からの攻撃の雨による痛みを感じるあのワンカット、完全にわすゆ四話の三ノ輪を重ねてきてるじゃん。
— Pt/金TBSと土BS-TBSで最終話観るアカウント (@patraschePt) 2018年1月5日
そこに背中からの反射攻撃じゃん。
気絶してて銀ちゃんの「またね」すら見られなかったそのっちが三好の背中に駆けつけるんやぞ。
泣くなっていうほうが無理。 #yuyuyu #yuyuyu2
泣くしかないよね。2話で夏凛に銀を重ね合わせてた園子があるので余計に泣ける。
そして
球子の花は姫百合
— 薊 花言葉は復讐 (@color_shie_full) 2018年1月5日
樹の花は鳴子百合
どちらもイメージカラーは緑
姉妹のように仲が良い友達を蠍座からやっと守れた少女
前に出て行く友達を蟹座・射手座からやっと守れた少女#yuyuyu pic.twitter.com/NnA6WHo3XC
ほんと勇者シリーズは過去の話と重ねてくることが多いですが、12体のバーテックスの技を天の神が自ら使ってくることで最終決戦でもこういう重ねが発生するという…。
しかし天の神が今までのバーテックスの技全部使っててこれはこれで格好いいな。#yuyuyu
— ヴェスパー8 (@vespereight) 2018年1月5日
これ、神樹様が満開した力を人間である勇者に全て託したのと正反対で、多分対比にもなっていますよね。
神樹の根元側に行ったのが初期勇者部だったのほんっっっっっとおまえ!!!!!!ってなった初期勇者部推しの僕です。 #yuyuyu #yuyuyu2
— Pt/金TBSと土BS-TBSで最終話観るアカウント (@patraschePt) 2018年1月5日
風先輩、友奈、東郷。樹が入学・入部してくるまでの3人の勇者部の1年間も、公式でいつかちゃんと見てみたい気がします。というかここの役割分担から行動への流れ、言葉少なでも分かり合って即連携するお互い、その信頼関係やそこに至る迄の積み重ねが見えてほんっっと最高でした。樹ちゃんが言い出す前に頼む風先輩にももう、妹の成長への感慨がないんですよ! 幼い妹ではなく、対等な1人前の勇者として扱ってる!!
東郷さんのピンチに
— いぶしろー (@otal_2) 2018年1月5日
いの一番に銀が駆けつけてきたのやばいよ
英霊となった銀の魂は須美や園子の近くで生き続けたんだろうなと感動したよ
#yuyuyu pic.twitter.com/qAJXQseB4P
こんなんやられたらいい歳したオッサンでも泣くだろ。#yuyuyu pic.twitter.com/4fZYJrY6oc
— KSGTKS (@typestruck) 2018年1月5日
BGMが、BGMが…
卑怯すぎて泣く。泣くしかない。
やっぱ、1話で園子の問いかけに銀、答えてたんだよ。園子はそれを聞いたから須美のことを思い出して泣いたんだよ…
彼岸花の合う『彼女』はちゃんと勇者でした。
— やーふみ (@YaFumizzz) 2018年1月5日
私は見逃しませんでしたよ。
後押ししてくれてありがとう…!#yuyuyu pic.twitter.com/IzoHyNtQyP
There. I wrote them for you.#yuyuyu pic.twitter.com/rt3qqkmMmg
— actbare (@actbare_) 2018年1月5日
こうなったらいいなあという、『ゆゆゆい』含めての西暦勇者のカメオ出演がほぼほぼ叶って感謝しかないです。巫女のひなた達もいるし、歌野と水都の向こうの緑の子達はメブ達防人だと思うし、もう、なんも言うことなく。
勇者部の面々もいる辺り、アストラル体なんだろうなとか、鳥になっていた若葉見る辺り、戦死した勇者や巫女たちは精霊化かそれに近い形で神樹様の眷属化していたのかな、とか、『ゆゆゆい』での記憶を持ってるんじゃないのかとか、考えれば考える程目頭が熱く。
戦闘ではなく、東郷さんが友奈を助ける為に手を貸してくれたというのも素晴らしかったです。
樹ちゃんの「友奈さんの幸せのため」ってセリフ
— いぶしろー (@otal_2) 2018年1月5日
勇者部の行動原理はこの一言に尽きるな
今まで東郷、友奈がみんなの幸せのために犠牲になってきた
でも東郷、友奈は幸せになれない
一人一人が幸せじゃないと自分も幸せな気持ちではいられないから、全員幸せでいるために別の道を模索する #yuyuyu pic.twitter.com/641WzvKgH2
人類の相続のために生きることを諦めた大赦に対比して
— いぶしろー (@otal_2) 2018年1月5日
人として生きる道を諦めずに世界を人類を友達を救おうとする勇者の決意がこのセリフに凝縮されてますね #yuyuyu pic.twitter.com/d63veurgqp
人間じゃなくなることは多分、大きな問題じゃなかったんですよね。人間であろうとなかろうと、友達を犠牲にする、友奈や東郷さんがいなくなることを前提として存在する世界ならばいらない。
1期友奈「東郷さんがいるから地獄じゃないよ!」
それは裏を返せば、大切な友達がいなかったら、そこは天国みたいな世界でも地獄なんだ、という話。
勇者部6人の力ではまだ足りずに攻撃が届かない
— いぶしろー (@otal_2) 2018年1月5日
そこから銀の代名詞でもある「勇者は根性!」って叫んでから銀の紋章が浮き出てブーストする展開熱すぎない?
7人揃って初めて勇者なんだ #yuyuyu pic.twitter.com/Mfp5egfVJR
友奈の最後の一撃のエフェクト配置が「友奈、夏凜、樹、風、園子、東郷」になっていて、何が熱いって最後に銀のエフェクトの時に「園子、東郷(須美)、銀」になるように配置されていること pic.twitter.com/qHLrzdbWkC
— ウラルー (@UralEmblem) 2018年1月5日
「鷲尾須美の章」と「勇者の章」を合わせて『結城友奈は勇者である』2期なんよね(号泣)。
落下する友奈ちゃんを優しく保護するアフターケアまで万全の牛鬼さん優秀だ #yuyuyu pic.twitter.com/AnA91hKLdp
— いぶしろー (@otal_2) 2018年1月5日
受け止める一瞬が、高嶋友奈の姿のようにも見える。
そういえば確かに誰より信仰心の強そうだった亜耶ってもしかして…
— そらんまつ (@Soramatsu_karma) 2018年1月5日
芽吹嬢たちとの日々の中に自分自身が共に在ること>>>>>>>神樹様の眷属となることだけを意識した形の信仰心、だからきっと大丈夫だって、ぼく信じてる。 #yuyuyu #yuyuyu2 https://t.co/Y3UQXv6uNT
— Pt/金TBSと土BS-TBSで最終話観るアカウント (@patraschePt) 2018年1月5日
春信さんは傷だらけになりながら戦った夏凜を抱きしめてあげるお役目がまだ残ってるので砂にならないでくれ
— 機玉 (@KidamaTAM) 2018年1月5日
おそらく勇者に加担して情が移ってる大赦の役人は神樹様を信仰しきれてないから
— いぶしろー (@otal_2) 2018年1月6日
生き残っているのでは
安芸先生とかにぼっしー兄とか #yuyuyu
あれだけ大赦に徹しようとしていた安芸先生が生き残れていたんだから、多分大丈夫。そういう意味でも安芸先生の勇者の章への抜擢は大きい。
あとこのシーンは号泣不可避だったな、、、#ゆゆゆ#yuyuyu pic.twitter.com/90URis9lgF
— タケ (@Take_Avenger) 2018年1月5日
この横断幕を保管していたの、安芸先生か鷲尾家だと思うんですよね 。2人ともあの時、あの後ずっと家には帰れていないだろうから。安芸先生、もしくは鷲尾のご両親が東郷さん達に手渡したんだとしたら、もうそれだけでそこにドラマが。
余談ですが、
— 監督 岸誠二(チームティルドーン所属) (@kishiseiji) 2018年1月6日
勇者の章最終話終盤の大満開友奈ですが、神樹の満開した力を授けられた友奈の目が所謂オッドアイになっています。何故オッドアイなのか…。
これ以上私の口からは言えません。
何卒ご了承下さい。#yuyuyu
安芸先生の目と関係あるのかないのか。
あーそうそうそういえばずっっっっと東郷と園子二人で銀の墓参りしてくれって言ってたけどそれが叶ったのは本当に良かった
— 機玉 (@KidamaTAM) 2018年1月5日
本当に良かった。仲良し3人組とそれを見守る安芸先生の構図の復活。ようやく仮面に押し込めていた涙を流せた安芸先生にもらい泣き。
友奈ちゃんが法解釈の違いを利用し、勇者部五箇条を使って、神樹様との神婚を正当化させるために悪用したため、法改正が行われました pic.twitter.com/O620MzaFoD
— いぶしろー (@otal_2) 2018年1月5日
勇者部六箇条一人ずつ書いてるのすごくいい #yuyuyu pic.twitter.com/JFtw85mV3J
— いぶしろー (@otal_2) 2018年1月5日
6人だから六箇条を1つずつ書けるっていう。これ思いついた人、スタッフさんも勇者部の誰かもどっちも本当に素晴らしい。
キャストの出し方に愛を感じる #yuyuyu pic.twitter.com/YVimkyBPAl
— すてら (@Story_terror) 2018年1月5日
愛しかない。
そして通常のキャストロールの最初にある「安芸先生」にまた目頭が。
キャスト表記がネタになるのはよくあるけれど、まさかそこで泣かされるとは…。
結城友奈は勇者である、鷲尾須美の章、勇者の章をご視聴頂いたお客様、ならびに結城友奈の章からご視聴して頂いているお客様。長い間ご視聴有難う御座いました。
— 監督 岸誠二(チームティルドーン所属) (@kishiseiji) 2018年1月5日
まだまだ描きたい事はありますが、勇者の章はこれにておしまいです。
諸々の条件の中、スタッフ一同出来うる限りの力を出し切りました。
アニメ結城友奈シリーズは「人間最後の最後は、人との繋がりが大事、そして性根が座っている事が大事、根性である」という事を描かせて頂きました。
— 監督 岸誠二(チームティルドーン所属) (@kishiseiji) 2018年1月5日
友奈達はスーパーヒロインではありませんでした。過酷な状況に挫け、倒れてしまう女の子達でした。
しかし、友達と支え合い、時にはぶつかり合いながらも、何度でも立ち上がる性根の座ったカッコいい女の子達でもありました。
— 監督 岸誠二(チームティルドーン所属) (@kishiseiji) 2018年1月5日
不屈とは、折れない者の事を言うのではなく何度折れても立ち上がる者の事を言うのです。
彼女達の姿をみて心に残ってくれる物があれば制作者として本当に幸いです。
勇者の章は終わりますが友奈達はこれからも生きて行きます。
— 監督 岸誠二(チームティルドーン所属) (@kishiseiji) 2018年1月5日
この世の理が元に戻った世界は多くの問題を抱えているかもしれない。それでも彼女達はこれからの人生を人と支え合いながら強くカッコよく生きていくでしょう。今後も彼女達を、勇者達を応援して頂ければ幸いです。
総監督 岸誠二#yuyuyu
「結城友奈は勇者である -勇者の章-」を最後までご視聴いただき、ありがとうございました! #yuyuyu pic.twitter.com/ZRZq4ca99l
— 結城友奈は勇者である (@anime_yukiyuna) 2018年1月5日
ありがとうございました!
『君の名は。』についてはずっと何か書きたいなあとは思っているので
『君の名は。』
公開前は、折角の全国公開で近場でもやる深海アニメなんだし、観に行かなきゃな、くらいの意識で、周囲と話題にするのも、「新海誠、天門と組んだ元ファルコムコンビのままでメジャー行って欲しかったなー」という弟の声に相づちを打ってたくらいで(同時に、世間的には元オウムの平田信と斎藤明美が出頭前に最期に借りたDVDのうちの1つが『秒速5センチメートル』てくらいの認知度ではないかという話をされたけど、それは凄くマイナーな話じゃないかと返した)、特に凄い期待みたいなものはなかった。
後、誰か試写会を見た人が、「いずれ『シン・ゴジラ』と並べて語られる」みたいなことをTwitterで言っていて、震災関連の何かがあるのかな、という予想はしていたけれど(正直、変な先入観入っちゃって迷惑だなあと思っていた)、それくらいだ。
公開初日、たまたま仕事で上映館のある市に午後までに行くので、午前中に市に入って仕事に行く前に観たら丁度いいな、と思って映画館に行ったのだ。
そしたら、凄く感慨深い作品だったのであった。
『ほしのこえ』の続きがあった。
『秒速5センチメートル』の遮断機を越えた先に、『言の葉の庭』の未来があった。
ああ、『ほしのこえ』のノボルは遂にミカコに追いついたのだ。そう思った。
スタッフロールをじーんとしながら見終えた後、出口に向かって驚いた。入れ替えで次の回を待っている中高生がそこには大勢いたのだ。
…みたいな感じでエッセイのような感想文を書こうとしていたのだけれど、どうにも書けない。
いつか機会があれば続きを書きたいな、と、TV放映に合わせて書き出しだけ公開し、ツイログのリンクを貼ってお茶を濁すなど。
http://twilog.org/H926/search?word=%E5%90%9B%E3%81%AE%E5%90%8D%E3%81%AF&ao=a&order=allasc
『結城友奈は勇者である』における障碍描写について
●その1
さて。『ゆゆゆ』とは直接関係はないのですが、先日、Twitterにこういう投降が流れていました。
その昔ね、北野武が言ってたのよ、「障がいというか、ハンディキャップというか、そういったものの社会の受け入れ方って、メガネが理想なんだよな」と、メガネつけている人は当たり前にいる、むしろいないほうがおかしい。誰も特別視しない、本人も負い目を感じない。当たり前にある。
— SOW@トッカーブロート秋のパン祭り開催 (@sow_LIBRA11) October 1, 2015
私が関連して思い出したのが、『ゆゆゆ』におけるハンディキャッパー、足の不自由な車椅子の東郷さんの描写のことでした。
作中、学校や街中での東郷さんというのは、勿論車椅子ですから立って歩いている大多数の中では非常に目立ちますし、誰かの介添えを必要とする場面も色々とありましたが、友奈ちゃんや勇者部のメンバーはじめ、モブの生徒やうどん屋さんなど含めて、誰もそれを特別視しないで、当たり前のように受け入れたり手助けしたりしておりました。東郷さんもそうやって手助けされることに負い目など感じてなさそうで、臆することもすまなそうにすることもなく普通に皆と笑いあっていて、まさに先のツイートの「メガネ」のような、理想的な障碍の社会での受け入れられ方というものが描かれているように思われました。
放映当時には、下記の記事のように、そういった、施設的なことも周囲や本人の受け入れ方のこともひっくるめての、理想的なバリアフリーの描写を好意的に評価する向きも見られました。
アニメ「結城友奈は勇者である」の徹底したバリアフリー描写が凄い - エキレビ!(1/2) http://www.excite.co.jp/News/reviewmov/20141127/E1417016920537.html
東郷美森という一人のキャラを通じて、ありとあらゆる場所でのバリアフリーを表現しています。
施設類の説明は、一切ありません。
キャラクターも、東郷の足について一切語りません。
少女たちだけでなく、東郷の補助に多くの大人がついてくれています。
結城友奈たちの住む世界では、これが一般的です。
こういった東郷さんの障碍についてのバリアフリー描写については、雑誌のスタッフのインタビュー記事などによると、モデルとして取材した中学校に実際にそういう車椅子の生徒さんがいて、周囲も本人も特別扱いすることなく、互いに物怖じすることなく普通に接していたことが印象に残り影響したそうです。温泉に特別な車椅子を用いてスロープ入っている描写などもありましたが、先の記事に詳しいですが、それも実在する車椅子や施設が基になっています。
つまり東郷さんの描写は別にスタッフが頭の中だけで考えた理想的なバリアフリーを描いたようなものではないのですが、それでもそれは、最初に引用した「メガネ」のツイートのような、「誰も特別視しない、本人も負い目を感じない。当たり前にある」という、障碍に対する社会の理想的な受け入れ方がされている世界の描写であったのです。
このまま東郷さんの障碍が、この「メガネ」に対するような理想的な扱いのまま、誰も気にすることなく、お話的にも一切その意味などが語られずに物語が終えられていれば、障碍を「メガネ」のように描いた作品として、今とは違った形の評価をされていたかもしれません。でも、実際の『ゆゆゆ』はそういう作品にはなりませんでした。
最初に引用したメガネのツイートに対して、印象的な1つの反応ツイートがありました。
ま、眼鏡かけているというだけで中学のときは結構いじめられましたけどね。基本、マッチョこじらせたヤンキー文化の中だと「ひよわそう」「なんとなく頭よさそう」というのはそれだけでからかいと憎悪の対象になるわけで。
— 坂東真紅郎 (@sinkurou) October 1, 2015
『ゆゆゆ』はそんな、理想とは違う眼鏡の人の受け入れ方のようなものも提示し始めるのです(実は第1話から提示しているのですが↓)。
社会や周囲がどう思おうと受け入れようと対応しようと実際問題として東郷さんの足は動かないし、樹海化のような災害の中では文字通り足手纏いで自分一人では逃げられもしないし、自分を受け入れてくれる人も危険に晒してしまうし、そこに負い目も感じる。「友奈ちゃん、今すぐ私を置いて逃げて!」
— 雪見バーガー (@H926) February 19, 2015
●その2
さて。また『ゆゆゆ』とは直接関係ないのですが、先日、こういったツイート群がTLを流れていきました。
障害者や同性愛者とかのマイノリティがフィクションに出てきて、その設定が話の筋とは関わらないと「あの設定意味あった?w」て反応見るけど話の上で意味がなきゃフィクションに出てもいかんのか〜となんともいえない気分に
— 味噌 미소 (@nmngr20) September 30, 2015
これ、本当に嫌だ。シングルマザーを出したら「彼女がシングルマザーになった理由が描かれてない」って言われるし、女性キャラが恋愛に興味示さなかったら「この人が恋愛に興味がないのはおかしいのでは」って言われる。
— 近藤史恵 (@kondofumie) September 30, 2015
小説の中に夫婦がでてきたら、必ずその馴れ初めから描かなくてはいけないかというと、全然そうではないのに、シングルマザーだとその理由がないと納得できないのは、おかしくない?
— 近藤史恵 (@kondofumie) September 30, 2015
凄く良くわかります。障碍者に限らず、自身ではどうにもならない身体的なものや性的志向、何が好きであるかの趣味嗜好などが周囲の多数と違う、マイノリティであるというだけのことが、普通ではない、特別なひとやものとして扱われるということは、堪えるものです。
だからこそ、マイノリティであることが普通のこととして扱われることは望まれるし、そうすることがポリティカル・コレクトネスであるなどとして、多方面から評価されることや、それこそが当然とされる傾向などがあるわけです。
前段の最後では、もしも『ゆゆゆ』の東郷さんの障碍が、当初一部から評価され期待されたように、一切特別なものとしては描かれずにいれば、きっと『ゆゆゆ』はそういった、ポリティカル・コレクトネスな作品として評価されたのではないだろうか、しかし実際の『ゆゆゆ』はそういう作品ではなかった、と書きました。
『ゆゆゆ』は途中から東郷さん以外の主人公達も身体昨日を喪失し、障碍を負っていくことになりました。東郷さんの足の障碍にも物語的な意味が付与され、それまで描写されていた(いなかった)ような、特に物語的には何の意味もない、背の高さ低さ程度の普通の身体的特徴の1つではなく、過去の悲劇を表す特別な特徴になってしまいました。
ここで前段のメガネのツイート的なもの、ポリティカル・コレクトネス的な作品を期待していた視聴者からは失望の声が上がりはじめ、逆にドラマティックな悲劇的展開に衝撃を受け感情を揺さぶられる視聴者と、そういった作品展開とその受容者を感動ポルノと揶揄するような視聴者が目立つようになり始めます。
僕はただただ衝撃の展開とそれに翻弄される少女達の姿を食い入るように見ていたので、感動ポルノと揶揄されるような部分にハマっていた部類に入るのでしょうね。
巷にはびこる「感動ポルノ」とは? - Togetterまとめ http://togetter.com/li/825350 via @togetter_jp
『ゆゆゆ』が、いたいけな少女を酷い目に合わせたり障碍者にして苦労させ、健気に頑張り生きる姿で心を動かし視聴者を気持ちよくする感動ポルノであり、そこを売りにした作品であるというのは、各キャラクターが後に障碍を負う部分を手で押さえていたキービジュアルからも分かる事で、スタッフもそれに自覚的であったというのは間違いのないことのように思われます。
では、序盤の東郷さんの理想的なバリアフリー描写というのは、その為の、上げて落としたり、スピンオフの前日譚との関連を示したりする、視聴者を驚かせる為だけの、単なる感動ポルノの下準備だったのでしょうか?
僕はそうではないと思うのですよね。
そもそも『ゆゆゆ』の主人公、勇者達が戦いの中で障碍を負うのは、キャラクターを殺さない為であったとスタッフはインタビュー記事で語っています(出典を示したいのですが今手元になくて確認できないので各自調査でお願いします。多分G'zマガジンです)。キャラクターを死なせずに戦いの悲惨さや緊張感のようなものを出すにはどうすればいいか、と考え抜いた結果のアイディアだそうです。
登場人物の死で、或いは死より酷い目に遭わせることでより強い感動を視聴者に起こそう、というような方向ではなく、登場人物を死なせたくない、死の代わりに何があるか、という方向性なわけです(これ、神樹様の満開実装後の勇者システムの、勇者を死なせない、ただしその代わりに散華があるというのに通じていると思います)。
『ゆゆゆ』にとって、障碍の描写というのは物語を盛り上げる手段ではあっても目的ではないのです。
なので、障碍の理想的な受容とか、ポリティカル・コレクトネスな作品というのも最初から目指してすらいないのですね、きっと。『ゆゆゆ』のバリアフリー描写は、そういった何らかの思想があってのものではなく、多分、取材対象への真摯な取材の結果としてそうなったというだけのものなのです。
真摯な取材の結果として、取材もした障碍者の実際の姿を単なる感動ポルノの道具に仕立て上げたのだと考えるとドン引きですが、逆に考えると、そんなわけないのですよね。
●その3
以前、『ゆゆゆ』に対しての呟きのまとめを作りました。
『ゆゆゆ』の身障やら車椅子やらの描写は結局なんだったのかというと - Togetterまとめ http://togetter.com/li/785356
それへの反応の中で、
ロリコンの身障萌えポルノなので言い訳はないのが良い、なら一見お綺麗な話と絵面で作らず素直にエログロアニメやれよってなるよねデビサバ2みたいにひたすらおっぱいとか強調して。
というコメントがあり、え、言ってるのそれの逆な(つもりな)のにと思いつつハッとしたのですが、私がこのまとめで長々と語って伝えたかった『ゆゆゆ』の良さって、まさにそこ、感動ポルノ、障碍萌えであるのに、それを強調したエログロアニメではないというところで、つまり、障碍を特別なものとして描きながらも、それを殊更に強調したりデフォルメしたりはしなかったという部分なのですよね。
『ゆゆゆ』は最終的に東郷さんの足を含め、全ての登場人物達の負った障碍を回復させます。治さずにそれを当初の東郷さんのバリアフリー描写のようにごく普通のこととして皆が受け入て生きる姿をよしとするような、ある種の理想的な、ポリティカル・コレクトネス的な物語にするのではなく、障碍を特別な苦しいこととして、それを抱えて生きていく少女達の健気な姿に視聴者が涙を流す感動ポルノでもなく、障碍をなくしてしまう。
障碍を普通のこと、なんでもないこととしてポリティカル・コレクトネスな作品にはしなかった。
障碍を特別なこととして描きつつも、最終的にそれに耐える少女の感動ポルノという構造も破壊してしまった。
残ったのは、ポリティカル・コレクトネスでも感動ポルノでもない、単なる中学生の少女達の、部活を通しての青春の1ページの物語だった。そこには障碍の有無はなんの関係もない。あってもなくても同じ。動かないのが東郷さんの足でも、友奈の足でも変わらないし、どっちも動けなくても、どっちも立って歩けてもそれは何も変わらない。僕にはそれがとても眩しい。
『ゆゆゆ』は身体障碍に関しては、理想や建前としては単なる身体的特徴として捉えるのが望ましいが、社会がそれを受け入れたとしても実際上の問題や心的なものは必ずしも解決しないし、天から授かった特別な個性や神様が与えた試練だとかいう捉え方には欺瞞性があるよっていう、割と身も蓋もない話よ。
社会や周囲がどう思おうと受け入れようと対応しようと実際問題として東郷さんの足は動かないし、樹海化のような災害の中では文字通り足手纏いで自分一人では逃げられもしないし、自分を受け入れてくれる人も危険に晒してしまうし、そこに負い目も感じる。「友奈ちゃん、今すぐ私を置いて逃げて!」
最初からそれは示されている。勇者部の5人が散華の身体障碍から回復することなく、それでも車椅子の東郷さんのように笑顔で日常を送り続けたとしても、その裏には同じように自殺や心中を考えてしまうくらいの負い目や感情が隠れているかもしれないし、それが何かの拍子に現れないとは限らない。
仮にそういった感情を東郷や風のような激しさでは表さない、友奈や樹のような穏やかな受け止め方をする子達だったとしても、彼女らが自身の障碍をどう受け止めているかなんてのは、園子と会った後の態度や、回復した時の表情を見ればわかる。何かを諦めて生きていくことは彼女らにとって幸せではない。
『ゆゆゆ』は最初から一貫して、理想的なバリアフリーを提示する一方で、それでもそこにこういった裏は消えないのではないかと示し続け、その発露という東郷の暴走を最後に持ってきた作品。障碍に対する正しい態度や理想を提示する作品ではない。寧ろその逆。正しさや理想の裏を暴く。
勇者部5人が回復せず、障害を抱えたまま、それでも笑顔で日常を生きていく結末だったとして、その方が物語としての納得度や完成度が高いとして、それを我々視聴者はどう受け止めただろう。人生の楽しみや夢を諦めて、それでも前向きに生きていく彼女らに勇気を貰った? 感動の涙を流した?
大赦が園子を崇め奉ったように、前向きに健気に生きていく少女たちを視聴者が尊んだり、或いは本人たちも視聴者も障碍を抱えたままでも気にしないでよしとするような終わり方というのもあったと思うのですよ。
でも、実際はそうではなかったからこそ、僕には『ゆゆゆ』が、『結城友奈は勇者である』という作品が、とても好ましいのだろうとも思うのです。それがポリティカル・コレクトネスではなかったとしても。いや或いはだからこそ。
勿論、それも一要素でしかなくて、『ゆゆゆ』のいいところ、好きなところはいーっぱい、いーっぱいあるのですが、今回はこの部分について語らせていただきました。
トゥギャッターのまとめと重複した、最終的には引用してのそのままな語りになってしまいましたが、これをもって、自分なりの1周年への祝辞的な何かとさせていただきます。
『ゆゆゆ』、大好きです!
これからの展開も楽しみにしています!!
『ゆゆゆ』の障碍描写のこと
放映から1周年ということもありまして、少し『ゆゆゆ』のことなどを。
本当は完全新規で改めての記事を書きたかったのですが、その為の資料が円盤もゲームも雑誌も今ちょっと取り出せなかったので、以前にTwitterで語りトゥギャッターに纏めた話などを使って、思いつくままに、つれづれと、この大好きな作品の一面について語りたいと思います。
みー
2月22日がにゃーにゃにゃーなら、3月1日はみーで、どっちにしろ猫の日なのではあるまいか。
この日も札幌で迎えるのは初めてだろうか。
あの子とチャットしてた時も身体は札幌でキーボート叩いてたような気はするけど、どうだったろうか。
昼頃に舞っていて、ああ、と思わせた雪はやがて雨に変わっていた。
あの子、というのは、我々にとって勇者と言えばこの女の子のことだったのだ、というカナ坊(仮名)のことである。
彼女がオールドホームに旅立ったというのを僕が聞かされたのが3月1日のことで、その日は青森では雪が降っていたのだ。
以来、毎年のようにこの日の雪というものを意識する。
もしも『CLANNAD』が予定通りに発売されていたなら、しのぶさんやカナ坊はまだここに居ただろうか、というのは今でも考える。
フィクションは彼や彼女を救えただろうか。それとも、それを選ぶ程に思い詰めさせた現実の前にはそんなものは無力だったのだろうか。もし無力なら、それはthen-dさんの死が本人の意思や周囲の願いではどうにもならなかったのと同じようなものだと認識すればいいのだろうか。
『CLANNAD』も『リトバス』も『AB!』も見ずに行ったキミよ。麻枝さんは今年は『Charlotte』っていうアニメに関わるそうですよ。