富野ファンではない僕と、Gのレコンギスタ(その6)
『ガンダムビルドファイターズトライ』を見ました。
Gレコはまだ視聴環境にありません(最遅バンダイチャンネル視聴組)。
メインヒロインが先輩な上に美人姉(外面いいけど弟には当たりが強い)もいる姉アニメで非常に素晴らしいですね。今後が楽しみです>トライ
時間帯は置いといて、今季はガンダムを生んだ本人の意欲的な新作ガンダムと、ガンダムを見て愛して育った人たちがガンダム愛で持って作る新作ガンダムという全く違う作り方の二つのガンダムを同時に見る事ができるわけだ。究極のガンダムVS至高のガンダムみたいな、なんて贅沢な。
— タナカリオン (@tanakarion) October 4, 2014
『Gのレコンギスタ』と『ガンダムビルドファイターズトライ』で『ガンダム』vs『ガンダム』、至高vs究極だ! みたいな見方もあるようですが、個人的な見立てでは『ガンダム』vs「ガンプラ」で、富野監督は昔から今に至るまで「ガンプラ」を敵視し、しかし敗北を喫し続けてきた――という私の中の勝手な物語(その2参照)においてはいよいよの直接対決であり、放映圏や時間帯の違いはともかく、構図としては富野監督も待ち望んだ形なのではないか、などと妄想してもおります(12年前に『キングゲイナー』vs『ガンダムSEED』というのもありましたが、似て非なる感じ)。
『ガンダム』vs「ガンプラ」というのは、乱暴に言い換えるとストーリーvsキャラクターであり、ストーリーの為にキャラクターがいるのか、キャラクターの為にストーリーがあるのかという対立軸です(勿論、実際にはそう単純に分けられるものではない不可分なものではあるのでしょうが)。
その2で書いたことの繰り返しになりますが、『ガンダム』はガンダムというロボットキャラクターを売る玩具ビジネスが出発点ですが、その中にあってのストーリー志向と、それが視聴者に受け入れられたことがブームの発端です。ストーリーがキャラクターよりも上位にあった作品なのですね(映画版でGファイターがコアブースターに置き換えられていることなどからもそれが分かります)。
しかし、ガンプラが出来てそれが社会的ブームになって以降、このストーリーとキャラクターの立場は逆転していき、ガンダムシリーズはモビルスーツというキャラクター(ガンダムではなくモビルスーツ)が主導権を握るようになってしまう。『Zガンダム』に至って、たくさんの新モビルスーツを売るために新しい原作ストーリーを用意せよ、というガンプラを作って売るスポンサーの要請は顕著になり、作中のアナハイムがそうしたスポンサーの暗喩である、というのはよく言われますね。
余談ですが、ヒット作品の続編、『ガンダム』から『Zガンダム』になるにあたってストーリーとキャラクターの主従逆転が起こったというのによく似た近年の事例に『魔法少女まどか☆マギカ』というのがあって、先だって唐突に富野監督が『まどマギ』の話を出したのは(まどマギのようなキャラクターは作れないがストーリーなら負けない、的な話をされていたと記憶)、ストーリーで話題になった作品がキャラクター主導で商業展開されていくことへの共感めいたものがあったようにも思います。
プラモメーカーやプラモファンにとって、ガンプラにおける『ガンダム』という作品は、ミリタリーモデルにおける史実と同じ意味です。人工の史実を創り出しそれが数十年にも渡って受け入れられ続けていると考えるとこれは本当に凄いことなのですが、裏を返して更に極論すれば、ストーリーを持った作品でありながら、プラモを主軸にした場合はその元ネタでしかないということでもあって、物語作品としては受け取られない、人工の事実、知識として受け入れられるということでもあります。現在のサンライズの公式見解である、映像になっているものだけが公式です、というのにも、そういった意識が垣間見えるような気もします。
『ガンダム』を史実的に捉える、極論すれば、そこに描かれているストーリー、物語を、作劇され演出された物語作品とは認識しない。そういった消費のし方は、物語作品としてそれを創作した人間にとっては失礼極まりない話で、面白くないであろうことは想像に難くありません。富野監督がプラモファンをあんなのは本当のガンダムファンではないとか、二次ファンに過ぎないとか言うのは、そういうことなのではないでしょうか。
キャラクターが主役であって、登場作品はその元ネタ、史実に過ぎない、ストーリーはキャラクターを活躍させるためのもの――というような二次創作的な作品受容が一般化し(『艦これ』なんか本当に史実が元ネタで公式のストーリー自体存在していませんが大人気です)、『ガンダムビルドファイターズ』という、まさに自分達が創りだしたモビルスーツというキャラクターとその商品を売るためのストーリー作品を向こうに回して、レコンキスタの名を冠した『ガンダム』作品をするというのは、キャラクターとストーリーの関係を再度逆転させるという意味でも再征服なのではないか、などと思ったりもします。
さて。
論語に「君子求諸己、小人求諸人」というのがあります。
立派な人は何事でも原因や理由を自分の中に見つけて反省したり責任を負ったりするけれど、器の小さい人はそれと反対に他人のせいにする、というような話です。
高校のクラスで休み時間に政治家の汚職なんかの話になった時、旨い汁を吸う政治家と虐げられる哀れな民衆、みたいな構図で嘆くクラスメイトに対して、自分と出身中学が同じ別の級友の2人が、その政治家を選んだ我々民衆にも責任はある、というような反論をした時にこれが頭にあったような記憶がありますので、中学で習ったような気がします。どうでもいい話ですが。
この「君子求諸己、小人求諸人」という話を覚えていたので、オウム真理教の事件が世間を賑わせていた時、オウムを、自分たちとは完全に違う異質なものであるとか、或いは社会とか時代とかが生み出したみたいに他人事のように言う人達の中にあって、自分(達)が生み出してしまったものだから、自分達が責任をとってどうにかしないと、みたいに言っておられた富野監督を、世界で一番信じられる大人だと、この上ない君子だと私は思っていました。
いや、オウムは富野監督のせいじゃないよ多分、とも同時に思っていましたが。
正直、それは流石に自意識過剰であろうとも思いましたが(オウムは『ガンダム』より『ヤマト』だろうって気がしていましたし)、何かあっても自分のせいじゃないと逃げ回り責任転嫁しようという大人たちの中にあって、自ら進んでそれを背負おう、その上でなんとかしようという態度は非常にかっこよかったのです。
アニメで若者たちを悪い方向に洗脳してしまった、病人をいっぱい作り出してしまった……、という後悔への反省が、いい方向に洗脳し直すアニメを作って軌道修正しよう、だったのには色んな意味で痺れたものです。
この時の富野監督への尊敬と信頼は、作家としての評価とは別の人間的な興味を僕に抱かせ、雑誌のインタビューやら何やらを積極的に摂取させていくことになりました。主に「ニュータイプ」のそれでしたが、ゲーム誌の取材なんかにも答えていて、「ゲームクリップ」かなにかの付録ビデオCDなんかには映像インタビューが収録されていたりもしましたね。その中で「ロボットアニメ、ガンダムなんか嫌いです」と散々言っておきながら、最後に、「でもこんなにそういう作品を作り話をするっていうのは、やっぱり好きなのかなぁ、ごめんなさい、やっぱり好きです!」と言う姿を見て、なんてチャーミングなんだ、と思った記憶があります。
インタビューや著作をあたっていく中で、本来はアニメーションではなく実写志向であって、それに対する未練や怨念がアニメに込められているっぽいことや、唯我独尊的なところ、凄く人間くさいところも見えてきて、オウムのことで責任を感じていたのにも、君子だからというだけではなく、物凄く高い自己評価と自意識過剰が影響しているんだとも分かってきて、だからといって幻滅するのではなく、逆に親しみや創作者としての貪欲さを感じて益々好きになっていきました。芸人やプロレスラーを見る視点にも近くなっていき、それには若干の後悔や反省めいたものもあります。
監督のプラモファン、二次ファンへの憤りが判るようになってきたのもこの頃で、そういう二次ファンである自分の情けなさ申し訳無さと、そういうファンである自分が否定されることへの反発を覚えたりもしました。ガンプラを入り口として『ガンダム』を好きになる人、富野監督を好きになる人だっているし、大なり小なり二次作品にも監督が『ガンダム』に込めたエッセンスは受け継がれているのに、なんで、と。また、ガンプラとそのファンを敵視するのではなく、利用する方がいいのではないか、と。
監督のガンプラとそのファンへの敵愾心というのは、ファンがガンプラに向けているものを自分に、作品に、『ガンダム』に振り向かせたいという意思であると思うのですが、そもそもガンプラ、モビルスーツを作り出したのも大元的には監督であり、それも自分(の作品)の一部だとは思えていなさそうなのはなんでなのだろう、と。
『∀ガンダム』の、過去のMSを発掘するという、過去のキャラクター資産を活かせる設定を作りながら、それを必要最低限しか使わず、登場を予定されていた過去のMSも新規デザインの別MSに変えてしまうというのには、作品のカラーに沿わせるなど様々な意味があったでしょうが、モビルスーツというキャラクターを強くしすぎない、飽くまでストーリーを主体に置こうというコントロールが伺えます。
それを許した周囲をどう捉えるか、というのも個人的には難しいところです。私は好き嫌いはさておき、富野ガンダムについては『1stガンダム』が群を抜いて面白いと思っておりますが、その理由としては、あの時点では富野監督が神格化されてなかったというのがあって、誤解を怖れずに単純化して言うと、例えば安彦さんとかと役職の違いはあれど、1スタッフとして対等な立場で殴り合いながら1stは作られていて、Z以降は殴り合える相手がいないまま、神様として祭り上げられて孤独に作っていたからなんじゃないか、という気がします。
監督自身はどこかでそれがよくないことだと分かりつつ、戦う相手を探し求めたり、若いスタッフをそう育てようとしてたようにも思うのですが、永野護のような存在が出てきて「おっ」て殴り合おうとしても、なんだかんだで周りが退場させちゃって試合すらまともにできないレベルで神様になってた(されてた)と思うのですよね。
富野監督に制限を与える存在としてはガンプラを売りたいスポンサーというのもいるにはいたですが、それは切磋琢磨とは別のぶつかり合いだったような気がします(それはそれで面白かったのですが)。
大昔、人間と神々は助け合っていたの。でも、聖書とコーランは神を一人ぼっちにしてしまったわ。だから彼は気が狂ってしまったの。たった一人で‘完全な存在’になろうとして。
……こんな印象です。
あと、富野監督の小説を読んでいても、アニメ的な制約から解き放たれた富野監督というのは、面白いけれど一般的なエンタテインメントとしての面白さではない、凄くカルトな方向に行ってしまっているように感じていて、いい意味でのそれの制限があった方が、切磋琢磨しブラッシュアップするスタッフが一緒にいた方が却って活きるように思うのです。いやこれは単に私の好みの話かもしれませんが。
閑話休題。
『∀』で既存のMSがほとんど発掘されなかったことは、作品に視聴者を引き込むキャッチ力をも喪わせてしまったようにも思えますし、それで引っかかるような旧来のファンはそんなのがなくても見るからそもそもそういうキャッチーさは必要ない、逆に新規ファンが引いてしまうリスクを避けえたとも思えます。しかし一方で、過去のMSの商品を『∀』登場に合わせて再発売するというようなビジネス的な機会もみすみす逃させてしまいました。
それが『∀ガンダム』という作品にとってよかったのか悪かったのかを確かめる術はありませんが、既存のMSをもっと出していたとしても、個人的には、作品の完成度や受け取られ方はそれほど変わらなかったのはないか、という気はします。
そして、富野監督がそうしなかったというのには、商業的に成功することよりも、モビルスーツというキャラクターにストーリーで勝ちたい、という作家的な欲望があったからこそなのではないか、と私は考えるのです。
見てもらいたい、成功したいというだけなら、キャラクターを使えばいいと思うのです。玩具を使えばいいと思うのです(『妖怪ウォッチ』の日野さんも「身の回りに置いたり、身に付けたりできるアイテムというのは、感情移入してもらうためにも大事ですし、おもちゃ展開があることで、ブームを作るためのたくさんの協力者が生まれるんです。」と言っています http://www.famitsu.com/news/201404/21051460.html )。人気の漫画やゲームを原作に使えばいいと思うのです。ガンプラでもSDでも、モビルスーツという自らが生み出した稀代のメガヒットキャラクター群を使えばいいと思うのです。
でも、富野監督はそれをしない。してこなかった。それは、商業的に成功することや、作品を通してメッセージを多くの視聴者に届けるということが、富野監督の主目的ではないからなのではないでしょうか。私にはそう見えます。
『Gのレコンギスタ』を子ども向けに作る、という発言もそうです。子どもたちに見せたい、伝えたいことがあるというのは勿論真意でしょうが、そこにはそれ(伝えたい
以上に、子どもたちに届くストーリーを作りたい、という作家としての欲望があるように思うのです。
作品だから伝わること、伝えられることがあるのも事実でしょうが、それ以上に、そういう作品を作りたいだけなんじゃないかと思うのです。富野由悠季という人は崇高な目的を持った人格者などではなく(いや勿論そうでもあると思うのですが)、根本的には創作への欲望に沿って動く人であり、そこに最大限の好ましさを感じつつも、合理的でないバカな人、だと私は思っています(失礼極まりない物言いですが、そういう人だからこそここまで精力的に創作活動が出来るのだと畏怖と尊敬もしております)。
子ども達に伝えたいことがあるなら、手段を選ばず、原作ものとか、『妖怪ウォッチ』とか、『SDガンダム』とか『ガンダムビルドファイターズ』を利用して、その監督をやった方がいいと思うのですよね。オリジナルの、リミッター解除した物語は小説とか劇場版で思う存分やって、TVシリーズはオリジナルでなくていいので、とにかく数と視聴機会を増やして、富野節を見聞きさせた方がいいんじゃないか、と思うのです。こういうこと思っちゃう辺り、根本的に富野ファンではないんでしょうけどね、私。
などと書いているうちに、バンダイチャンネルでの『Gのレコンギスタ』の配信が始まりましたので、見てきます。
バンダイチャンネルで1、2話を見てきました。
おーもーしーろーいー! (平伏)
アニメがアニメになっていく過程で忘れられつつあったテレビまんがの面白さがここに。恐ろしくテンポがよい。
多分、ある日突然テレビつけたらやってるどこか1話だけ見ても面白いタイプですねこれ。
アイーダさん超美しい。一方で主人公のこと好きっぽいチアのセンターの子が報われなさそう可愛い。みんな生っぽくて、途切れない会話が心地よい。
見てて楽しいです。
(続く)