富野ファンではない僕と、Gのレコンギスタ(その2)

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 富野由悠季は歪められてきた、と思う。




 『機動戦士ガンダム』のファンには、映像、アニメーションドラマ/映画、作品としての『ガンダム』のファンと、プラモやSDといったモビルスーツというキャラクターコンテンツ、商品としての「ガンダム」のファンとがいる。モビルスーツだって作品の一部だし、映像ソフトだって商品だ。厳密には何が作品で何がコンテンツかなんてのをどこでそれを切り分けるかはとても難しいし、どちらのファンであることも両立するし、実際のところ、比率的に一番多いのは、その配分は違うにしろ、『ガンダム』と「ガンダム」両方のファンであるファンではあろう。

 しかし同時に、その両極に於いて作品の『ガンダム』と商品としての「ガンダム」の対立は非常に激しい。

 それは、商品としての「ガンダム」というのが、究極的に言うと、ようするに『妖怪ウォッチ』における妖怪や、ポケモンと同じ、キャラクター群と世界観のことであって、物語『作品』はそれを伝える情報媒体に過ぎず、ゲーム等で代替可能なものであるからだ。もっと言えば、それすら必要ない。「原作を見たことはない」けれどそのモビルスーツを作成するというガンプラモデラーは、決して珍しい存在ではない(但し、注意深く見ていくと分かるが、そのガンプラの原作は知らなくとも、何がしかの『ガンダム』――多くの場合は『1s』t――を見ているという場合が多い)。

 一方で、作品としての『ガンダム』にキャラクターとしてのモビルスーツは究極的には必要がない(実際、小説版の『逆襲のシャア』の1つ、『ハイストリーマー』の挿絵に於けるモビルスーツはキャラクター性が削ぎ落とされているし、小説版『イデオン』の挿絵に於けるイデオンもアニメ版とは全く違う<イデオンガンダムではありません)。別に宇宙戦闘機であっても、パワードスーツであっても『ガンダム』という物語、作品自体は成り立つだろう。

 極端な話、作品としての『ガンダム』に商品としての「ガンダム」は必要ないし、商品としての「ガンダム」に作品としての『ガンダム』は必要ないのである。

 けれど、ガンダムは『ガンダム』と「ガンダム」は互いを両輪に今日まで続いてきた。

 そこに、大きな歪みがあると思う。

 ガンダムが『作品』か「商品」か――なんてありふれた話題だし、今更どうでもいいことではあろう。

 だが、機動戦士ガンダムのシリーズは、そして富野由悠季という作家は、『作品』と「商品」の間で最も歪められてきた存在の1つだと思うし、『Gのレコンギスタ』という新しいガンダムもまたその歪みの中から顕れ出てきたように僕は感じている。だから、そういう話を少ししたいと思う。

 本来的に富野由悠季と作品としての『ガンダム』を支えているのは、『ガンダム』のファンである。『1st』の打ち切り終了後に署名嘆願活動を行い、再放送を勝ち取った『ガンダム』及び富野由悠季のファン達である。

 ここまでは純粋に『作品』とそのファンの関係であり、作品評価の結果が世間を動かした事例であろう。
 しかし、その『ガンダム』自身の作品評価によるガンダム人気の流れはそれに留まらず、プラモデル、ガンプラという商業コンテンツの出現によって、商品としてのモビルスーツというキャラクター群、「ガンダム」が爆発的にヒットすることによって、その流れは混沌の渦に飲み込まれていった。

 商品としての「ガンダム」を生み出し成立させたのは、作品としての『ガンダム』の人気とファン活動であると言えるが、その後に社会的なブームを巻き起こしたのはガンプラという商品としての「ガンダム」であるというのは、卵が先か鶏が先かみたいな話ではあるのだが、良くも悪くも、「ガンダム」ブームとそれが齎したり見込まれたりした商業的利益によって『ガンダム』は映画版が作られたのだと思うし、そこで成功を治めたことが、その後の『Zガンダム』等の新シリーズが作られていくような構造を形作るベースになってしまったと思う。

 バキ風に言うと、富野由悠季と作品としての『ガンダム』は、商品としての「ガンダム」に保護されている、というのが僕の見解だ。

 本来的には、『作品』の内容が良ければそれをファンが支え、悪ければそっぽを向く、作品の出来が作品と作家の未来を左右するという構造が、こと『ガンダム』と富野由悠季に於いては、その作品とファンの関係の構造ごと「ガンダム」が支え保護してしまう。
 喩え、富野由悠季の新たな『作品』がどんな駄作、失敗作に終わったとしても、「商品」としての「ガンダム」が成功を続けている限り、そのダメージは「ガンダム」が守ってくれる、という見方である。

 ただし、「ガンダム」が守っているのは「商品」の種としてのガンダム富野由悠季であって、『作品』や作家としての『ガンダム』や富野由悠季ではない。
 作家としての富野由悠季が死んだとしても、「ガンダム」という商品を作った富野由悠季は死なないということだ。
 その一方で、商品としてのガンダムの版権をサンライズバンダイに取られてしまった(売ってしまった)富野由悠季に、商品としての「ガンダム」の利益がバックされることは無いと言っていい。ガンダムのプラモやゲームがどんなに売れても、そのロイヤリティが直接的に富野由悠季に入ることはないのだ。

 その上で「ガンダム」、そしてその商業的な権利を保持するバンダイ富野由悠季を守りながら求めるのは、『作品』ではなく「商品」なのである。

 これは相当に歪んだ関係と構造だ。

 富野由悠季に「ガンダム」の生み出した利益が直接的に還元されなかったことはビジネスマンとしては不幸だが、作家としてはファンの『作品』評価に純粋に向き合えるという面もあったかもしれないし、「ガンダム」の成功を盾に、市場的な評価を余り気にせずに冒険的な『作品』を(比較的)作り易い、という利点のような面もあったかもしれない(なかったかもしれない)。後にガンダム以外の作品でガンダム以上の成功が収められていたなら、全てをひっくるめて、ある意味では幸運だったと言えたかもしれない。「商品」を求めるスポンサーを騙くらかして「商品」ではなく『作品』を作ったとしても、それが「ガンダム」と同等以上のブームになるのであれば、結果的に問題はなかった筈だ。

 しかし、ガンダム以降の富野由悠季作品は、それぞれ人気を得たが、『ガンダム』以上のヒットをしたとは言い難く、「ガンダムガンプラほどの社会現象を巻き起こすこともなかった。
 結果として、富野由悠季はそれらの失敗(むしろ成功だと思われる作品も多いのだが、本人が失敗作と言っていることもあるし、失敗とする)を商品としての「ガンダム」に守られ、しかしそれが故に商品としての「ガンダム」の続きを求められ、再びガンダムを作らなければならなくなったその時、この歪みは完成したように思う。

 歪みは完成した上で拡大を続け、その後のガンプラやSD、ゲームといった商品群は、『ガンダム』を見る前に「ガンダム」ファンであるガンダムファンを生み出し、遂には富野由悠季が携わらないアニメ作品の『ガンダム』「ガンダム」すら作られるようになった。

 それには様々な事情があろうが、『作品』としての『富野ガンダム』や作家としての富野由悠季の評価とは全く関係がなく、その頃の彼には商品としての「ガンダム」が作れないという、「ガンダム」側、バンダイから下された評価でもあったのではないだろうか。「ガンダム」の始祖という立ち位置はそのままに、「商品」開発者としての富野由悠季はここで一旦見切りをつけられたのではないかと思う。しかし作家としての評価自体は下がらず(「ガンダム」側は余り興味がなかったのかもしれないが)、この辺りから富野由悠季は作家として、或いは「ガンダム」の始祖として、大御所タレント的に、そして「ガンダム」の商品の1つとして扱われるようになっていったようにも感じる。

 そんな中で富野由悠季ガンダム以外の創作も続けたが、それがガンダム以上のブームを巻き起こすことはなく、作家としては彼やその作品の純然たるファンの評価に支えられつつ、同時に彼のネームバリューは商品の1つとして、商品の「ガンダム」を出し続けるバンダイに支えられ守られるようにもなってしまった、というような感覚だ。富野由悠季ガンダムの名があれば、作品の内容に関係がなく映像ソフトは最終巻まで発売されるであろう、という安心感と、その状況が作家としての富野由悠季に悪い影響を与えるのではないかという不安。

 最早、作品としても商業コンテンツとしてもガンダムは余りに巨大になり過ぎ、それを切り離して富野由悠季という作家、その作品を評価することは困難だ。”ガンダムの”富野由悠季作品という前提がなかったら、例えば『ブレンパワード』や『キングゲイナー』は今のような評価や売上であったか否かなど判別のしようもない(勿論、あらゆる意味でこれは無意味な仮定ではある)。

 極端な話、作品としての『ガンダム』が廃盤になってしまったとしても、商品としての「ガンダム」が続く限り、その始祖の1人として富野由悠季の名は永遠に残るだろう。生まれて初めて見たガンダム富野由悠季の『ガンダム』ではなく、見ないままにその『ガンダム』や「ガンダム」のファンとなり、作品としての富野『ガンダム』や他の富野作品を、ガンダムシリーズのグッズとしてコレクションするガンダムファンというのも、存在する。

 自ら生み出した作品の『ガンダム』から生まれたものではあるが、作品としての『ガンダム』よりもキャラクターコンテンツとしてのプラモやゲーム、「ガンダム」に興じるガンダムファンというのが、作家・富野由悠季の目にどう映っているのか、自分を半ば無視した上に金銭的には報わず、しかし自分を守ってもくれているガンプラや「ガンダム」、そのファン達をどう思っているのかというのには推し量れないものがあるが、幾つかの発言からは、憎悪にも似た感情も僕には読み取れる。

 そういった歪みの中で、求められるものと求めるものが齟齬を来しつつも絶妙なバランスで成り立って存在しているのがガンダム富野由悠季であり、『Zガンダム』以降、『Gのレコンギスタ』に至るまで、その歪みの中で、彼自身も歪み苦しみながら『ガンダム』の創作を続けてきたように、僕には見えるのだ。

(追記)現在では富野由悠季監督にも若干ながら『ガンダム』関連商品のロイヤリティは支払われているとのことです。よかった。何よりです。

(続く)