富野ファンではない僕と、Gのレコンギスタ(その1)

 『機動戦士ガンダム』は、最初は女性アニメファンに注目され(アウトやアニパロコミックスを読んだ限りではシャア×ガルマのBL的視点の注目が大きかったようなんだけれど、最初期はどうなんだろう)、次いで男性アニメファンが追随したけれど、スポンサーであるクローバーの玩具の売れ行きが不調であった為に放送は打ち切りになり(クリスマス商戦でGファイター付きのDXセットがヒットし、クローバーは打ち切り決定後に放映延長を打診したそうだが、時既に時間切れで現在のような終わり方になったという)、しかしその後、ファンの要望、再放送を嘆願する署名活動等に応える形で再放送、その再放送後にバンダイが出したガンプラが小学生男子中心に大ヒット、社会現象になり更に再放送が重ねられ映画化が行われる――というような流れから現在に至っているのだと認識している(要確認)。

 自分の話をしよう(というかこの「その1」は全部自分の話である)。

 僕は丁度、『機動戦士ガンダム』が再放送から社会現象になっていき、映画化された時の幼稚園児だったのだと思う。花見のテキ屋でザクのゴム人形(首や腕などが取り外し出来るのだけれど、ジョイントパーツにメカメカしいモールドがしてあって凝っていてお気に入りだった)を買ってもらい、ズック袋にテレビマガジンの付録の劇場版『ガンダムIII』のシールを貼り、TVマガジンの付録のMS大図鑑2冊(半完成品に別紙のカラー画稿をのりで貼り付けて自分で完成させる(た)やつだ)を宝物に、ガンダムの身長が何メートルで何万馬力だなんてのを憶えて、デパートのガンダムショーに連れて行ってもらい(ハリボテの大きなガンダムシャアザクが両脇に並んだステージで、あの大きなガンダムとザクが動くものと思って目を輝かせていたら着ぐるみのガンダムとザクが出てきてがっかりした)、ショーの終わったあとのクイズ大会で司会のお兄さんに当てて貰おうと全力で手を挙げて、隣の小学生に当てられて本気で悔しがってるような子どもだった。

司会「ガンダムの武器といったら?」
小学生「て…鉄砲?」
司会「なんという鉄砲でしょう?」
小学生「……」
俺達「「「「はいはいはいはいはいはい!!!!」」」」
俺の父親(びーむらいふる―)
小学生「…! ビームライフル!!」
司会「はい、正解!!」
俺達(絶望&僕は父親に不信の目)

 ガンダムモビルスーツとそれ以降のロボットアニメのロボットというのは当時の自分にとっては今で言う『妖怪ウォッチ』の妖怪や、ポケモンのようなものだった…のだと思う(仮面ライダーや戦隊ヒーローの怪人、ウルトラマンの怪獣なんかも同じ枠で、テレビマガジンの付録のそれらの事典は階段脇に座ってなんでも熱心に読んでたような記憶がある)。
 ガンプラやメンコがゲームの代わりで、同じ様にモビルスーツを好きなたくさんの子どもたちと、それぞれお気に入りのキャラクターの意匠を持ったそれらを互いに持ち寄って戦い合わせていた。
 実家で甥っ子達がポケモンのポスターを壁に貼ってそれを熱心に見ていたのを目にした時、同じ場所にテレビマガジンの付録のポスターを貼ってモビルスーツの名前を覚えていた自分の姿が重なって見えて感慨深く思ったものだ(どんだけテレマガに支配されていたのだろうか当時の自分は)。

 そんなだからか、或いは先にこれを与えられていたからなのか定かではないけれど、物心ついて初めてのクリスマスプレゼントはクローバーのガンダムDXセットだった(後に分かるが偶々パチンコの景品にあったロボットがそれだったからである。やがて同様のパチンコの景品としてボトムズのデュアルモデルやハイメタルエルガイムも与えられている。幼稚園当時一番欲しかったのはザブングルの玩具だったが、残念ながらパチンコ屋になかったかその時の親は勝てなかったかしたようだ)。小学・中学と成長すると誕生日やクリスマスのプレゼントはガンプラに変わった。今考えると年齢が上がっているのにプレゼントの価格は下がっている。当時数百円のガンプラ価格はお父さんお母さんにも優しかったのかもしれない。

 いつしか愛読書はテレビマガジンからコミックボンボンに変わり(この移行も実は価格が下がっている)、『プラモ狂四郎』をバイブルに作中でやっていた改造を色々と真似したり、紙面と模型で同時展開していたMSV(モビルスーツ・バリエーション)に夢中になったりしていた(その間に『ザブングル』や『ダグラム』、『ダンバイン』や『ボトムズ』『バイファム』が放映され、それらのプラモも作ったりしたけれど、結局帰ってくるところがガンプラだったのは『プラモ狂四郎』の影響だと思う)。今でも好きな色は赤だけれど、それはジョニー・ライデンのせいな気がする。自分の好みで設定より黒を増やして赤と黒で塗り分けたMS-06R2ザクIIと、MS-14B高機動型ゲルググのライデン機はアニメ本編のモビルスーツシャアザクシャア専用ゲルググなんかよりずっとカッコイイし強いと思っていた。

 やがてVHSとビデオレンタル店が普及し、我が家にもVHSデッキがやってきた頃に『Zガンダム』の放映が始まった。ウチの地方では裏番組が『レンズマン』で、相当に悩んだけれど『Zガンダム』を録画することを選んだ。最初は『Zガンダム』を録画して『レンズマン』をリアルタイム視聴しようと思っていたのだけれど、いつしかリアルタイムでCMカット録画をしながら『Zガンダム』を見るようになっていた。『レンズマン』の時間移動か終了もあったろうし、親から与えられた使い古しの120分テープに出来るだけ多くの話数を入れたいという事情もあった(当時のテープ価格もあってだろう、複数のテープを与えられることはなく、1本のテープをどう使うかでその頃は頭を悩ませていた…が、結局『Zガンダム』は消したくないとごねてごねて最終的に2本の120分テープを追加で貰ってそれに全話収めた)。うちにあったデッキのリモコンは有線の上に別売りで当然のように導入されず、デッキに張り付いてCMどころかOPやEDまでカット(後期OPに変更された時は録った)しながらの視聴は色んな意味で真剣で、その手間の成果を確認する為もあったのだろう、録画したその『Zガンダム』は今振り返ってもバカなんじゃなかろうかというくらい繰り返し繰り返し見ていた。今現在、甥っ子が何度も何度も『アンパンマン』の録画を繰り返し見ようとするのに、『Zガンダム』をそうしていた自分を思い出したりもする。

 その頃の僕は正直なところ『ガンダム』等のロボットアニメに物語を見ようとしていたのではなく、甥っ子が『アンパンマン』やポケモン等をその多種多様なキャラクターを中心に楽しんでいるように、多種多様のモビルスーツをキャラクターとして見て楽しんでいたのだと思う。しかし今の『アンパンマン』や『ポケモン』のアニメ同様、幼い僕が少しずつ言葉の意味を覚え成長しながら繰り返し見ているそれらには物語があったのだ。人が死ぬシーンに恐ろしさを感じ、飯台(当時我が家にあったのはテーブルなんて洒落た言い回しするような家具ではなかった)の下に隠れたりしながら、僕はアニメで描かれる、物語というものを徐々に徐々に理解していったようにも感じる。

 さて、そんな風に『Zガンダム』にハマっていた上にボンボン読者だった僕は、当然のように当時の講談社が出した『Zガンダムを10倍楽しむ本』も手にとっていた。富野由悠季という人を認知したのは、この本でのインタビューからだったと思う。やがて別系統で『クリィミーマミ』にハマって以来アニメファン化していた姉(当初は熱心なピンクレディーやアイドルのファンだった)が読んでいたアニメ誌や、時折気まぐれで親に買い与えられた模型誌なども併せて読んでいくことによって、『ガンダム』というのが、少なくとも富野由悠季という人にとっては、モビルスーツというキャラクターやメカを自分のような子ども達に売っていくことを目的としたものではなく、物語…、映像「作品」を強く意識して作られているということが分かってくる。1st『ガンダム』にはTV版と劇場版があって、TV版のGファイターGアーマー)が劇場版ではコアブースターに差し替えられているのだけれど、それは、玩具前提のメカであるGファイターを監督が作品にそぐわないと嫌ったかららしい、なんていうことも。

 今思えば、GファイターGアーマー)及びそれを玩具化したガンダムDXセットというのは、スポンサーの都合で打ち切られたり延長を打診されたりの作品製作に対する理不尽の象徴のようなものだからこそ拘ったのではないか、とも思えるのだけれど、当時の僕にとって監督のGファイター否定というのは激しくショックな話だった。前述の通り、ガンダムDXセットは自分とガンダムとの関わりの象徴のような存在であったし、そもそも自分にとって当初ガンダムというのは物語作品というよりも、モビルスーツというキャラクター群のことであったので、それが本質ではない、本質は別のところにあるというのは自分内で物凄いパラダイム・シフトを引き起こすものであったからだ。

 そしてそれは、ガンプラファン、モビルスーツファンである自分は物凄いガンダム好きのつもりでいたけれど、実は富野監督の作った作品としての『ガンダム』を何も見ていない、作品のファンではないということを突きつける話でもあった。

 実際には当時の自分はそこまで受けたショックについて色々と考えていたわけはなく、やりたいことがあるけれど、その為にはお金を出してくれるスポンサーの意向にそって動かなくてはならない事情が大人にはあったりする、という社会の仕組みみたいなものを当時の富野監督のインタビューから知ったり、それが『Zガンダム』作中のアナハイムとクワトロ(シャア)の関係に落とし込まれているというような解説から、『ガンダム』スゲー、深けー、くらいの話に落とし込みつつ、相変わらず『プラモ狂四郎』に影響されてハイザックのプラモを作ったりするガンプラファンのままだったのだと思うのだけれど(1/100のハイザックが素組で指が1本1本稼働するのには心底感動した)。

 『Z』が終わり『ZZ』が始まる頃には、ガチャポンの塩ビ人形のSDガンダムがブームになっていて、周囲の友人達がハマるのに合わせて自分の興味もガンプラからSDガンダムに移っていった。『ZZ』前半がコミカルだったのも影響していたのかもしれない。自分は塩ビ人形のSDガンダムよりも付録のシールのデザインとその裏の解説が好きだったけれど、学校では塩ビ人形の方と、シールと同じデザインを流用したマグネット(駄菓子屋で一枚数十円程度で買えた)が人気で、それをメンコとして、リノリウムの床一枚を土俵にして戦うというのが流行していた。やがてカードダスや、元祖SDガンダムやBB戦士といったSDのプラモも出てくるのだけれど、自分の周りではBB戦士が圧倒的な人気を誇った。SDプラモはタカラの『魔神英雄伝ワタル』のキットがヒットしていた影響かとも思うけれど、うちの田舎では『ワタル』が放映されていなかったので、BB戦士1強だった。

 時代的には前後してファミコンの全盛期でもあり、『Zガンダム』のソフトには凄く憧れたが(特に仕様の違うプレゼント版)我が家では買ってもらえず、しかしディスクシステムの『SDガンダム』は許されたのでこれに思い切りハマった。幼い頃から慣れ親しんだ知識のスペックを再現したモビルスーツ達を自分で操作し戦う快感は得難いものであった。友達や弟と対戦しまくり、やがてマップコレクションに書き換えして更に遊びこんだ。

 『逆襲のシャア』はそんなSDガンダムの第一次ブーム時に公開された為か『SDガンダム』が併映で、前売券特典では限定のSDガンダム(塩ビ人形)のνガンダムが付けられているものもあった(今考えると『ドキュメントダグラム』の併映に『チョロQダグラム』と同じパターンでもある)。このνガンダムは特殊な材質な為に硬いし塗装も出来なくて他の人形と並べておくにはそぐわなかったのだけれど、光を当てておくと暗闇で光る蓄光タイプのプレイバリューがあって、小学生の自分と弟は、懐中電灯で光を浴びせたそれを、階段下の物置に持って行って扉を閉めては興奮して眺めていた。

 『逆襲のシャア』は公開前にTV特番などもやり、その最後に富野監督は「この作品は35歳以上の方に、特に男性の方に見てもらいたい」といったメッセージを発している。作品ではなくモビルスーツというキャラクター、特にSDガンダムなんていう派生物に夢中で、その玩具を目当てにしていた当時小学生の自分のような子どものファン?は、富野監督にとっては望む観客層ではなかったのかもしれない。実際、作品、シャシンとしての映画を観に行っていたとは言い難いので、申し訳ないような、複雑な気分がある。Gアーマーショック再びである。

 『∀の癒やし』に、「ファースト・ガンダムの第一番目のお客さんになってくれたのは、中学生の女の子であって、まちがってもプラモ・ファンではない。」という記述があるけれど、僕はそのプラモ・ファンであって、ガンダムという作品のファン、富野由悠季のファンではなかったガンダム・ファンなのだ。これは今でもそうで、物語として『ガンダム』シリーズを見直し、その映像作品としての素晴らしさ面白さに気づいて富野監督スゲーと思うようになった後も、興味の主体はやっぱりモビルスーツであって、紡がれている物語や作品ではない。

 ゲームやプラモ、SDガンダムなどのグッズにお金を注ぎ込んだ一方で映像ソフトを一切購入していないこと、『キングゲイナー』などのガンダムでない富野作品の幾つかを見ていないこと(友人に1話を見せてもらってOPに感動したことは覚えているのだけれど、当時WOWOWを見る環境もレンタルする余裕もなくそのままになった)、これから見る予定も特にないことなんかを考えると、つくづくとそう思う。一方で、富野作品でなくてもガンダムの新作であればこれからも僕は見るだろう(『UC』はまだ観てないけど)。

 ガンダムを、キャラクターやプラモを玩具メーカーに作らせたのは、元を辿れば富野監督達アニメの製作者であり、その魅力に気づいて署名活動をして再放送をさせてくれたファン達だ。

 僕はガンダム・ファンではあるかもしれないけれど、富野ファンでは、ない。

 そこに感謝と罪悪感と断絶を感じる。

 自分のような当時の子ども、プラモ・ファンやSDファンは、コンテンツ、キャラクター・ビジネスとしてのガンダムを支えてきたのかもしれないが、同時に作品としてのガンダム、作家としての富野由悠季を苦しめ続けてきたのではないか、と。

 春休み、ガンダムに興味などない祖父に連れていってもらった『逆襲のシャア』を上映する映画館には、保護者の同伴など無しのサッカー部の先輩達も大挙して来られていて、気恥ずかしかったのを覚えている。時間を間違えた為、『エルム街の悪夢3』を見て恐怖のずんどこに叩き落とされてから『SDガンダム』を観、意識して必要以上に笑って気を取り直した後で『逆襲のシャア』に臨んだというのも印象深い(当時は入れ替え制のシネコンではないので、入場後に留まっていれば、映画館によっては1枚のチケットで複数の映画を観たり、同じ映画を何度も観たりといったことも出来たのだ)。富野監督が観て欲しいと言った35歳以上の男性が会場にいたような印象は、余り無い(いやうちの祖父は確実にそうだったけれど)。

 『逆襲のシャア』は、ガンダムシリーズは、富野由悠季監督の想定した作品としてのガンダムのファンや監督のファンばかりではなく、僕のような非・富野ファンの子どもやガンダムに興味のないその保護者も多く目にした作品だったと思う。その上での『逆シャア』の配給収入6億2千万円、観客動員数103万人(Twitterで流れていたが、これは同年の『となりのトトロ』を上回る)というのを、富野由悠季という人がどう思っていたのか、どう思ってきたのかということを察することは出来ない。今、『Gのレコンギスタ』という作品を敢えて子供向けであるというように言う心理の深層というのは、尚更だ。

(続く)