富野ファンではない僕と、Gのレコンギスタ(その4)



 これはおっさんオタクの、印象論に依る、妄言である。
 




 商品としての「ガンダム」、キャラクターコンテンツとしてのモビルスーツが岐路に立たされている、と前回書いた。

 モビルスーツというキャラクターと、それを表現し消費者の手元に届くガンプラという商品は社会現象レベルでヒットし、今日まで隆盛を続けてきているが、結局のところ、キャラクターコンテンツとして大成功したと言えるのは、『1st』〜『逆シャア』くらいまでの連邦とジオンのモビルスーツ群と、”ガンダム”という記号化したキャラクターであって、『F91』のクロスボーン・バンガードモビルスーツ群以降、平成『ガンダム』や『∀』『SEED』『OO』『AGE』に至るまで、ジオン軍モビルスーツ群やガンダムガンキャノンガンタンク、ジム以上に認知されたモビルスーツ群はいない(検証したわけではないので偏見と言われればその通りである)。

 誤解を恐れずに言えば、『F91』『V』以降の敵モビルスーツ群は市場に受け入れられなかったということだ。これはプラモ以外のTVゲーム等の娯楽の隆盛もあるし、1/144が主流だったそれまでのガンプラの流れを一旦リセットして、従来の1/144よりも大きく1/100よりは小さい、小型MSの1/100キットを主軸にしてガンプラを仕切り直そうとしたF90〜Vのバンダイの試みが巧く行かなかった為でもあるが、単純に、旧来のザク等のモノアイを持ったジオンモビルスーツ群のキャラクターの強さを、クロスボーン・バンガードのゴーグルMSやベスパの遮光器目MSでは継承も超えることも出来なかったということでもある(個人的にはとても面白いデザインだと思うのだけれど)。

 21世紀の1stガンダムを目指すとされた『SEED』が続編の『DESTINY』でザクやグフ、ドムのリメイクモビルスーツを出したというのも、『UC』が1st〜逆シャアに出てくるMSやそれに連なるMSをメインとするのも、結局、キャラクターコンテンツとしてジオンのモビルスーツ群を超える新たなキャラクター群を生み出せないという悲鳴や諦めのようにも見える。

 新作ガンダムにおけるMSがジオンMSのようにキャラクターとして根付かないというのは、放送が終わればそれがさっぱり売れなくなるということでもあり、ディズニーキャラクターやサンリオキャラクター、ポケモンのような、長く愛され続ける普遍的なキャラクターシリーズとその拡大足り得てはいないということで、初代の大ヒットから続いてきたモビルスーツというキャラクターコンテンツは緩やかに終わりに向かっているように感じる。

 TV放映もされていないのに売れ続ける、ザクを始めとする初期作の宇宙世紀モビルスーツがキャラクターとして規格外なのは確かだが、新作ガンダムには登場しない(わけでもないのだが)以上、新規にそれを知る子どもたちというのは目減りする一方であり、売上は購入層の高齢化で短期的に上がったとしても(MGをはじめ、マニアックで高価な商品が売れ線となっている今がその状態である)、購入層全体の先細りは避け得ないだろう。

 モビルスーツ全体ではなく、ガンダムというキャラクターを活かす方向で、現在のスーパー戦隊シリーズ仮面ライダープリキュアのように、毎年ガンダムを放映し、シーズン毎のガンダムをその時々の子どもたち相手に売るという方法もあるだろうが(実際、ある時期に於いてバンダイバンプレストガンダム仮面ライダーウルトラマン等のヒーローのような普遍的な子ども向けのキャラクターとしようとしていた節があり、ゲーム内で共演させるなどしている)、作風や視聴者層や制作体制の違い等様々な理由があったのであろう、そういう風にもならなかった。

 『ガンダムAGE』というのは、そんな中、既に『ダンボール戦機』『イナズマイレブン』等で、かつての、そして本来的に想定されたガンプラファンと同じ層に対してスマッシュヒットを飛ばしていた日野晃博を投入し、少年向けコンテンツ雑誌としてはNo.1の「コロコロコミック」とタイアップし、形的には万全の体制で子ども達の方を向いた新「ガンダム」だったが、残念ながら、想定されていたような商業的な大成功とはならなかった。

 キャラクターコンテンツとしての「ガンダム」の先細りは日野晃博でも止められなかった。しかし『AGE』がダメだった一方、日野さんの別の仕事、『妖怪ウォッチ』は空前の大ヒットを飛ばしている。

 僕がバンダイの人だったら、日野晃博はダメだ、ではなく、「ガンダム」は子ども向けコンテンツとしてはもうダメだ、という認識になると思う。

(『AGE』がうまく行かなかったのには、現場レベルで日野晃博のアイディアが「こんなのガンダムではない」と受け入れられず通せなかったというのもあるようだし、その意味ではガンダムであることがデメリットとして生じた、というのは一面の事実であろうし。……個人的には、『AGE』が失敗したのはコンテンツ「商品」を作らせるべき日野さんに『作品』を作らせたことが理由と考える。ここの混同とミスマッチは初代からずっとガンダムが抱えてる問題だと思う)。

 また、聞くところによると、コロコロコミックにおける「ガンダムAGE」の記事はアンケート下位で、理由として、子どもたちが『「ガンダム」』を自分たち向けのコンテンツだとは思わなかった、というのがあったらしい。『妖怪ウォッチ』の人気の理由の1つに、「ポケモンと違って色々言ってくるうるさい大人がいないから」というのがあるそうだが、似たような構造だろう。ガンダムにはポケモン以上にうるさい大人が多すぎるのは確かだ。かつての子ども向けの玩具としてのガンプラの役割を果たしているのが今では「ダンボール戦機」なのにも、それがガンダムではないからという理由があると思う。

 「ガンダム」が岐路に立っている、というのはここだ。誤解を恐れずに言えば、子ども向けコンテンツとしてはもう先が殆どないという市場判断が為されている。しかし一方で、ザクをはじめとしたジオンモビルスーツガンダムというキャラクター群は当時子どもだった現在の大人達には今持って人気であり、購買力も高い。この前提の中、少子高齢化が進む中でどういうビジネスとして、キャラクターコンテンツとして「ガンダム」存続させていくのか、或いは終わらせるのか、それとも…。

 『「UC」』や『「ORIGIN」』は、一見、高齢者向けの商品としての映像ソフトとして作られているように感じられるが、これらには別の役割もあるように僕は思う。
 即ち、『F91』以降に設定された新規モビルスーツ群をキャラクターコンテンツとしては失敗と切り捨て、過去の成功例である『1st』〜『逆シャア』の頃のモビルスーツにスポットを当て直し、改めてそれらを集中して売っていく為の仕切り直しである(『ポケモン』シリーズに喩えるなら、『赤・緑』に対する『ファイアレッドリーフグリーン』以降のリメイクシリーズである)。

 『ガンプラビルダーズ』『ガンプラビルドファイターズ』も同様だ。既に資産としてある膨大なキャラクターを、既存のファンに向けて訴求すると共に、新たな顧客に紹介し届ける為の市場開拓の意味合いがそこには感じられる。

 いわばそれらは「ガンダム」のルネサンスだ。

 バンダイは新たなガンダムシリーズを創造して行くことにある程度の見切りをつけ、過去への回帰に向かおうとしているように見える。

 そんな流れの中で、敢えて新しい『ガンダム』を作り、それにレコンキスタの意味合いとタイトルを付けてしまうのが富野由悠季という人である。

 わくわくする面白さなのだが、バンダイから見ると、近年の氏の作品は地上波で長期間流した「Vガンダム」も「∀ガンダム」もガンプラに対する貢献度は低く、子ども向けのキャラクタービジネスとしては成功したとは言い難い。もっと言うと、富野由悠季という人は、1stガンダムという大黒柱を生み出してくれた神であると同時に、以来それと並ぶ商品をずっと期待し、ずっと機会を与えてきたにも関わらず、1度もそれを成し遂げてはくれなかった人でもあるのである(期待値が高すぎるだけで十二分にヒットメーカーではあるのだが、バンダイも富野本人もそれで満足しているとは思わない。バンダイは「商品」で「ガンダム」より売れるものを期待し、富野は『作品』で商品としての「ガンダム」より売れるものを作ろうとしたという齟齬はあるだろうが)。

 形的には万全を期した「AGE」が駄目だった上で、今更新しい「ガンダム」に、それを富野由悠季にやらせるということに、ガンプラを、キャラクターコンテンツを子ども向けに売るビジネスとして、どれだけの期待ができるだろうか。

 作品として評価され円盤が売れるのだとしても、子ども向けのキャラクターコンテンツとして期待できないのであれば、アニメを地上波で全国に流す旨味は薄い。それでもスポンサーがつけば(例えば『暴れん坊力士!!松太郎』が老人向けのスポンサーがついて早朝放映されたように)全国放映されたのだろうけれど、されなかったということは、それもなかったということなのだろう。

 テレビ視聴を巡る諸々の変化や『AGE』の不振などもあろうが、そういうことを言うならば『V』や『∀』は視聴率的、商業的にどうだったのかという話にもなるし、全ては邪推、類推に過ぎないが、なんにせよ、現状の富野「ガンダム」の新作に、地上波で全国放送する商業的な意義は見出されなかった。純粋にプラモを販促するために特化された『ガンプラビルドファイターズ』の方にリソースを割くのは、キャラクターコンテンツをガンプラを販売する会社としては至極当然の判断だろう。

 『Gのレコンギスタ』が深夜アニメだというのは、多分、そういうことだ。ガンプラやスポンサー収入で利益を回収するのは無理だが、DVD/BDや有料配信で映像そのものを販売するモデルならば採算がとれるという判断。

 キャラクターコンテンツとしての期待はもうされていない。しかし、映像そのものは商品となる。ある意味それは、キャラクターコンテンツとしての「ガンダム」「ガンプラ」の呪縛から、富野由悠季と『ガンダム』がようやく逃れられたということのようにも思える(『ブレンパワード』や『キングゲイナー』、そして『∀』で既にそういう状態にあったとも言えるが)。

 しかしそれは同時に。かつて『ガンダム』や富野を自分のような子どもたちに届けた「ガンダム」「ガンプラ」の庇護を失ったということでもある。にも関わらず、富野由悠季は『Gのレコンギスタ』を子どもたちに見せたいと言う。糖衣錠の糖衣を失った薬、剥き出しの富野由悠季と『ガンダム』がどこまで通用するのかというのは正直未知数だ。或いは、「ガンダム」ではない新たな糖衣を作り出し纏うということなのかもしれない。Gはガンダムではなく元気のGである、という宣言には解放感があった。

 しかし『Gのレコンギスタ』はいつの間にか『ガンダム Gのレコンギスタ』になっていた。

 前述のコロコロの事例の通り、ガンダムの名前と知名度は既存の高齢ガンダムファンには訴求力があるかもしれないが、子ども達には寧ろマイナスに働きかねない。にも関わらずガンダムを名乗って子ども達に挑む(ガンダムの名は富野監督が望んだのか否かはわからないけれど)。

 正直、無謀だと思った。

 ネットで配信された冒頭10分を見た時、それは従来と同じ富野由悠季アニメの1つとしか感じられず、これは駄目だと思った。これが子どもたちに届くというなら、『Gレコ』以上の好条件で地上波放映されていた『Vガンダム』『∀ガンダム』だって『ポケモン』や『妖怪ウォッチ』のように、最初の『ガンダム』の時のように子どもたちを巻き込んで大ヒットしている筈だし、中高生向け深夜アニメだとしても、『けいおん』や『まどか☆マギカ』のように話題になり拡がっていくビジョンというのが個人的に全く見えなかった(3話までの先行上映を見た人達の反応を見ても、安定の富野アニメだと安心する人ばかりで、「これはヤバイ」的にプリミティブに大騒ぎする人を見なかったのも大きい。作風も作品スパンも違うので当然と言えば当然なのだけれど)。嫌な汗がだらだらと出た。

 勿論、『Vガンダム』『∀ガンダム』の時とは時代が違うし、富野作品やガンダムに慣れきった自分のような高齢者とは違い、今の子どもたちの目には改めて富野アニメ、『Gレコ』は新鮮に映るのかもしれない。Gセルフは正直あんまりかっこ良くないと思ったけれど、新ガンダムは毎回のようにそう思っていても最後には大好きになっているし、人物や台詞回しは魅力的だし面白いし、ある意味のエキセントリックさも海外ドラマと同じ様に受け入れられるのではないかとも感じる(前言撤回。冒頭10分を見た時、『Gレコ』の女性キャラは男性よりも女性に受け入れられるのではないかというようなビジョン、予感だけはあった)。

 しかし、経路がない。『けいおん』のヒットには深夜とは言え非常に広かったTBSの放送網が影響しているし、『まどマギ』のヒットにはニコニコ動画での無料配信が大きく絡んでいる(話題になった3話放映時点で1、2話が無料配信されていたので多くの視聴者がそれで追いつくことが出来たと記憶している)。『Gのレコンギスタ』にはどちらの条件も満たしていないのだ。

 とは言え、深夜アニメではなかったが、全国放送ではなくWEB配信なども無かった時代の『エヴァンゲリオン』がヒットしていった前例もある。それに、『コードギアス』のように深夜アニメで始まっても2期で放映時間が変更されるということもあるし、作品の人気次第では覆せるのかもはしれない(……でも無理だ、と現時点での僕は思ってしまう。冒頭10分を見た時に、これはまずい、宮崎作品のように嘘でも引退作品とか言って煽らなくていけないのではないかと思ってしまった。ファンは今すぐにでも署名活動して上映館を増やしてくれるよう、放送局を増やしてくれるよう嘆願しなければならないのではないかと思ってしまったのだ。しかし周囲の冒頭十分や先行上映を見た富野ファンの人達は焦っていなかった。大丈夫だと言っていた。全くそう思えなかった僕は富野ファンではないのだとその時悟った。純粋に作品を見れていなかったし、改めて見直しても、コレはとんでもなく面白いから人に薦めよう…! というような気持ちにはなれなかったのだ。…本編を見れば僕にも違うビジョンが見えるのだろうか。そうなることが楽しみでもあり、そうならないことが怖くもある)。

 そもそも、円盤を売ることを前提とした深夜アニメ的なビジネスモデルで子供向けアニメを作って、それを不特定多数の子供達に視聴させるなんて現状では不可能に近いと思う。親が円盤を買って子どもにそれを見せるような育児スタイル(米国のベビーシッターのバイト形態にそういうのあったと思う)が一般化していれば或いは可能かもしれないが、現状はそうではない。いや富野監督のことだから、『Gのレコンギスタ』でそういうアニメの新しい視聴スタイルを創りだしてやろうくらいのことを考えているのかもしれないけれど。

 そう考えると、高齢者向けに対して監督が言った、「あなた達の子どもに見せて下さい」は、現状のアニメのビジネスモデルの中で子ども達に自作を見てもらう為にした、大真面目な発言だったようにも思える。親が子にアニメを薦めるという形を創り出す。ミニ四駆ゾイドリバイバルされ(再)アニメ化された時の一部の親子関係のように、「ミノフスキー粒子ってのはな…」なんて親と子で番組に対しての会話が生まれたりするのを想定しているのかもしれない。

 子どもたちにお金を出させるのではなく、スポンサーに阿るのでもなく、高齢者の作品ファンがお金を出し、若年者にそれを見せるというスタイル。教導的であるが、そういった親の「見せたい」からの始まりでも、子どもが続きを「見たい」と思えるなら勝ちであり、そういうことが出来る勝てると踏んでいるのかもしれない。

 実際のところ、富野監督が『Gのレコンギスタ』に対して、どういう結果、勝利条件を望んでいるのかはわからないけれど、それは対世間、対世界に対しての相当に大きなもので、物凄く達成が難しいものなのではないかと思う。

(少なくとも『ブレンパワード』や『キングゲイナー』のように、円盤がある程度ヒットして、アニメファンの中で名作認定されるなんてチャチなものではないだろう。端から見ると凄く立派な実績だと思うのだけれど)

 でも、富野由悠季のそういう挑戦に、出来ると信じて進む姿に、どうしようもなく惹かれてしまうのもまた確かだ。

 不安と期待を抱きながら、『Gのレコンギスタ』本放映を待っている。

(続く)