富野ファンではない僕と、Gのレコンギスタ(その3)



 今更ながら、これは、飽くまで僕にはこう見えていた、こう思っている、というだけの話である。事実誤認や勘違いや偏見は多分に含まれている。





 その1その2でも書いてきたけれど、商品としての「ガンダム」の肝とは、モビルスーツであったと僕は考えている。
 それは現代における『妖怪ウォッチ』における妖怪や、『ポケットモンスター』におけるポケモン、『アンパンマン』の種々のキャラクター達、『艦隊これくしょん』における艦娘などと同じかそれ以上に、稀代のキャラクターコンテンツ群であったのだと。

 しかし、ここまで「ガンダム」という商業キャラクターコンテンツの人気が続くとは、それを売ってきたバンダイでさえ予想はしていなかったのではないだろうか。だからこそ続編である『Zガンダム』が作られるまでの年数、ガンダム以外の商品、ポスト「ガンダム」、ポスト「ガンプラ」、モビルスーツに続く新たなキャラクターコンテンツのシリーズを求めた続けたのではなかっただろうか。

 MSV、モビルスーツバリエーションというものもあったが、それは「ポケモン」に例えれば初代の『赤・緑』に対する『青』や『ピカチュウ』Ver.のような初代のマイナーチェンジ版であって、コンテンツの継続・拡張の為のものでもあったろうけれど、それ以上に、初代、「1st」を、その賞味期限が切れるまでに使い尽くそうというような意図の企画・商品であったのではないかと思うのだ。
 その間に「ガンダム」や「ポケモン」ではない新たなヒット作品(商品)を生み出し、そちらにリレーし、また次の作品に――という流れを想定していたのではないだろうかと。

 しかし、結果的にポスト「ガンダム」、ポスト「ポケモン」が期待したレベルの商品として根付くことがなく、同時に「ガンダム」「ポケモン」の人気がそれら以上であったが故に、ポストの別作品ではなく、それらの直接的な続編、「Zガンダム」や「金・銀」が作られることになったのではないか、というのが僕の見立てである。

 さて。この見立ては、商品として「ガンダム」や「ポケモン」を見た場合、スポンサーや「ガンダム」ファンが期待していた「作品」展開の話だ。当然のことながら、『作品』を作ったり見たりしている側の見解とはこれは一致していないだろう。

 ガンダム以後、富野由悠季がどれだけスポンサーの要請に応えその意図通りの「商品」を作ろうとしていたのかは定かではない。が、常に「商品」よりも『作品』を作ろうとしていたように僕の目には映る。

 そもそも「ガンダム」のガンプラ、特にジオンのモビルスーツ群のヒットは意図したものではない。怪我の功名だ。『作品』としての『ガンダム』の初期構想では、敵のモビルスーツはザクだけの筈だったのだ。それがスポンサーの要請で、グフ、ドムをはじめとする局地戦用機体や、ゴッグズゴックなどの怪獣然とした水陸両用モビルスーツ群、モビルアーマーといった、バリエーションに富んだキャラクター達が生み出され登場させられたわけであるし、遡っていけばモビルスーツという巨大ロボットそのものが、ロボットアニメという枠でスポンサーをだまくらかして『SF物語』をやろうという妥協の産物であり、SF側の人間からSFではないと批判された(スタジオぬえにSFをやるからと言って考証やパワードスーツのデザインを協力してもらっていながら、それが玩具然とした巨大ロボットのモビルスーツガンキャノンの原型となるなどで軋轢もあったらしい)、本来であれば抹消したい、『作品』にとっては余計で不必要な部分なのだ。

 自分達が生み出したものとはいえ(中には富野由悠季自身のラフ・スケッチから生み出されたキャラクターもある)、嫌々作中に出したキャラクターが大ヒット、スポンサーや「ガンプラ」「ガンダム」ファンには『物語』や初期構想そっちのけでそればかりを評価されるという状況は(「ガンプラ」ファンが喜んであれこれ話しているガンダムセンチュリーやMSVの設定は勝手に後付されたもので、自分の創りだした『作品』のそれではない二次創作ということもあり)、富野由悠季にとっては、幾ら商業的に成功したとしても、多分に面白くはなかっただろう(いくらプラモが売れても自分にロイヤリティが入ってこないなら尚更だ)。
 しかも「ガンプラ」ブームの規模は小学生男子を中心に社会現象化し、再放送を求めるなどの地道な活動をして作品を応援してきてくれたファンたちが支えた『ガンダム』ブームを喰う勢いだったのだ。
 世間的に認知されるのは作品としての『ガンダム』ではなく、商品としての「ガンプラ」であるともなれば、『ガンダム』ファンは大好きだけど、「ガンプラ」ファンは大嫌い、となるのは至極当然の成り行きであろう。

 偏見かも知れないが、そんな状況の中で、そんなまぐれ当たりの「商品」をもう一度とか、「ガンダム」みたいにうちの玩具も売ってくれみたにに言われて(最初から主役ロボのデザインがスポンサーに決められていた『イデオン』『ザブングル』ってそういう感じだと思う)、富野由悠季という人が素直に従うとは僕には思えない。

 当然のように『作品』で「商品」を喰い返してやろうと思っていただろうし、「商品」キャラクターコンテンツ群を作るとしても、「ガンダム」の時にスポンサーに言われたままにそうするよりも(白いモビルスーツである筈のRX-78ガンダムトリコロールカラーに塗れ、とかね!)、誰にも思いつかないようなユニークなそれを『作品』としても成立させてやろう、くらいに思っていた筈だ。『イデオン』の重機動メカなんかそういう野心がアリアリと見える。

 「ガンダム」の実績があったのだ。スポンサーに「これが売れるんです」と富野が言えば、『作品』でも「商品」でも通せる余地はなくはなかったのではなかろうか。『イデオン』『ザブングル』『ダンバイン』『エルガイム』――、この頃の富野アニメはイケイケで攻めている感じがして、活き活きとしているように思う。

 しかし、結果として、富野由悠季ガンダム後に世に出した『作品』も「商品」も、「ガンプラ」ブームを、「ガンダム」を超えることは出来なかった(重機動メカやオーラバトラーが商業的に成功しなかったのは、当時の玩具メーカーの――というか業界そのものの――技術が富野のコンセプトやデザインに追いついていなかったという要素も強く、今の技術で作っていれば或いは、とも思うのだけれど)。

 イレギュラーである「ガンダム」を、新たな『作品』、若しくは計画的な「商品」で超えよう、としたであろう富野由悠季の試みは悉く失敗し、その果てに、”もう新しいのはいいので「ガンダム」の続編を作って下さい”というような身も蓋もない依頼が来た、作家(&商品企画者)としての最後通牒を突き付けられた、というのが『作品』サイドから見る『Zガンダム』の企画立ち上げ時の状況なのではなかろうか。

 誤解を恐れずに言えば、作品としての『ガンダム』、そして作家としての富野由悠季はこの時、商品、キャラクターコンテンツとしての「ガンダム」に完全に敗北を喫したのだと思う。そしてその敗北の自覚があったればこそ、この時期の富野由悠季は狂っていったのではないだろうか。

 そして1stからの直接的な続編である『Z』『ZZ』『逆襲のシャア』が1st時程の規模ではないにせよ商業的に成功するも、時代を移し、非ジオンのイメージを持つMS群で新たに立ち上げた『F91』『V』で失速(モノアイのイメージを覆すクロスボーン・バンガードのMSのゴーグルや海賊的なデザインは本当に魅力的だったのに…)、『Gガンダム』から非富野の『ガンダム』が作られ、富野自身の手により『∀』という『ガンダム』最終章が作られるが――富野は『ブレンパワード』『リーンの翼』『キングゲイナー』といった非ガンダム作品も手がけるが――、結局、この時の敗北は現在に至るまで覆されていないように僕は感じる。

 そして現在に至り、商品としての「ガンダム」、キャラクターコンテンツとしてのモビルスーツが岐路に立たされている中での、『Gのレコンギスタ』である。

 それは「ガンダム」への敗北が現在に至るまで解消されることがなかったからこその、作品としての『ガンダム』の、商品としての「ガンダム」へのレコンキスタなのではないか、等と考えたりもする。

(続く)