富野ファンではない僕と、Gのレコンギスタ(その6)



 『ガンダムビルドファイターズトライ』を見ました。





 Gレコはまだ視聴環境にありません(最遅バンダイチャンネル視聴組)。
 メインヒロインが先輩な上に美人姉(外面いいけど弟には当たりが強い)もいる姉アニメで非常に素晴らしいですね。今後が楽しみです>トライ



 『Gのレコンギスタ』と『ガンダムビルドファイターズトライ』で『ガンダム』vs『ガンダム』、至高vs究極だ! みたいな見方もあるようですが、個人的な見立てでは『ガンダム』vs「ガンプラ」で、富野監督は昔から今に至るまで「ガンプラ」を敵視し、しかし敗北を喫し続けてきた――という私の中の勝手な物語(その2参照)においてはいよいよの直接対決であり、放映圏や時間帯の違いはともかく、構図としては富野監督も待ち望んだ形なのではないか、などと妄想してもおります(12年前に『キングゲイナー』vs『ガンダムSEED』というのもありましたが、似て非なる感じ)。

 『ガンダム』vs「ガンプラ」というのは、乱暴に言い換えるとストーリーvsキャラクターであり、ストーリーの為にキャラクターがいるのか、キャラクターの為にストーリーがあるのかという対立軸です(勿論、実際にはそう単純に分けられるものではない不可分なものではあるのでしょうが)。

 その2で書いたことの繰り返しになりますが、『ガンダム』はガンダムというロボットキャラクターを売る玩具ビジネスが出発点ですが、その中にあってのストーリー志向と、それが視聴者に受け入れられたことがブームの発端です。ストーリーがキャラクターよりも上位にあった作品なのですね(映画版でGファイターコアブースターに置き換えられていることなどからもそれが分かります)。

 しかし、ガンプラが出来てそれが社会的ブームになって以降、このストーリーとキャラクターの立場は逆転していき、ガンダムシリーズモビルスーツというキャラクター(ガンダムではなくモビルスーツ)が主導権を握るようになってしまう。『Zガンダム』に至って、たくさんの新モビルスーツを売るために新しい原作ストーリーを用意せよ、というガンプラを作って売るスポンサーの要請は顕著になり、作中のアナハイムがそうしたスポンサーの暗喩である、というのはよく言われますね。

 余談ですが、ヒット作品の続編、『ガンダム』から『Zガンダム』になるにあたってストーリーとキャラクターの主従逆転が起こったというのによく似た近年の事例に『魔法少女まどか☆マギカ』というのがあって、先だって唐突に富野監督が『まどマギ』の話を出したのは(まどマギのようなキャラクターは作れないがストーリーなら負けない、的な話をされていたと記憶)、ストーリーで話題になった作品がキャラクター主導で商業展開されていくことへの共感めいたものがあったようにも思います。

 プラモメーカーやプラモファンにとって、ガンプラにおける『ガンダム』という作品は、ミリタリーモデルにおける史実と同じ意味です。人工の史実を創り出しそれが数十年にも渡って受け入れられ続けていると考えるとこれは本当に凄いことなのですが、裏を返して更に極論すれば、ストーリーを持った作品でありながら、プラモを主軸にした場合はその元ネタでしかないということでもあって、物語作品としては受け取られない、人工の事実、知識として受け入れられるということでもあります。現在のサンライズの公式見解である、映像になっているものだけが公式です、というのにも、そういった意識が垣間見えるような気もします。

 『ガンダム』を史実的に捉える、極論すれば、そこに描かれているストーリー、物語を、作劇され演出された物語作品とは認識しない。そういった消費のし方は、物語作品としてそれを創作した人間にとっては失礼極まりない話で、面白くないであろうことは想像に難くありません。富野監督がプラモファンをあんなのは本当のガンダムファンではないとか、二次ファンに過ぎないとか言うのは、そういうことなのではないでしょうか。

 キャラクターが主役であって、登場作品はその元ネタ、史実に過ぎない、ストーリーはキャラクターを活躍させるためのもの――というような二次創作的な作品受容が一般化し(『艦これ』なんか本当に史実が元ネタで公式のストーリー自体存在していませんが大人気です)、『ガンダムビルドファイターズ』という、まさに自分達が創りだしたモビルスーツというキャラクターとその商品を売るためのストーリー作品を向こうに回して、レコンキスタの名を冠した『ガンダム』作品をするというのは、キャラクターとストーリーの関係を再度逆転させるという意味でも再征服なのではないか、などと思ったりもします。



 さて。



 論語に「君子求諸己、小人求諸人」というのがあります。



 立派な人は何事でも原因や理由を自分の中に見つけて反省したり責任を負ったりするけれど、器の小さい人はそれと反対に他人のせいにする、というような話です。
 高校のクラスで休み時間に政治家の汚職なんかの話になった時、旨い汁を吸う政治家と虐げられる哀れな民衆、みたいな構図で嘆くクラスメイトに対して、自分と出身中学が同じ別の級友の2人が、その政治家を選んだ我々民衆にも責任はある、というような反論をした時にこれが頭にあったような記憶がありますので、中学で習ったような気がします。どうでもいい話ですが。

 この「君子求諸己、小人求諸人」という話を覚えていたので、オウム真理教の事件が世間を賑わせていた時、オウムを、自分たちとは完全に違う異質なものであるとか、或いは社会とか時代とかが生み出したみたいに他人事のように言う人達の中にあって、自分(達)が生み出してしまったものだから、自分達が責任をとってどうにかしないと、みたいに言っておられた富野監督を、世界で一番信じられる大人だと、この上ない君子だと私は思っていました。

 いや、オウムは富野監督のせいじゃないよ多分、とも同時に思っていましたが。

 正直、それは流石に自意識過剰であろうとも思いましたが(オウムは『ガンダム』より『ヤマト』だろうって気がしていましたし)、何かあっても自分のせいじゃないと逃げ回り責任転嫁しようという大人たちの中にあって、自ら進んでそれを背負おう、その上でなんとかしようという態度は非常にかっこよかったのです。

 アニメで若者たちを悪い方向に洗脳してしまった、病人をいっぱい作り出してしまった……、という後悔への反省が、いい方向に洗脳し直すアニメを作って軌道修正しよう、だったのには色んな意味で痺れたものです。

 この時の富野監督への尊敬と信頼は、作家としての評価とは別の人間的な興味を僕に抱かせ、雑誌のインタビューやら何やらを積極的に摂取させていくことになりました。主に「ニュータイプ」のそれでしたが、ゲーム誌の取材なんかにも答えていて、「ゲームクリップ」かなにかの付録ビデオCDなんかには映像インタビューが収録されていたりもしましたね。その中で「ロボットアニメ、ガンダムなんか嫌いです」と散々言っておきながら、最後に、「でもこんなにそういう作品を作り話をするっていうのは、やっぱり好きなのかなぁ、ごめんなさい、やっぱり好きです!」と言う姿を見て、なんてチャーミングなんだ、と思った記憶があります。

 インタビューや著作をあたっていく中で、本来はアニメーションではなく実写志向であって、それに対する未練や怨念がアニメに込められているっぽいことや、唯我独尊的なところ、凄く人間くさいところも見えてきて、オウムのことで責任を感じていたのにも、君子だからというだけではなく、物凄く高い自己評価と自意識過剰が影響しているんだとも分かってきて、だからといって幻滅するのではなく、逆に親しみや創作者としての貪欲さを感じて益々好きになっていきました。芸人やプロレスラーを見る視点にも近くなっていき、それには若干の後悔や反省めいたものもあります。

 監督のプラモファン、二次ファンへの憤りが判るようになってきたのもこの頃で、そういう二次ファンである自分の情けなさ申し訳無さと、そういうファンである自分が否定されることへの反発を覚えたりもしました。ガンプラを入り口として『ガンダム』を好きになる人、富野監督を好きになる人だっているし、大なり小なり二次作品にも監督が『ガンダム』に込めたエッセンスは受け継がれているのに、なんで、と。また、ガンプラとそのファンを敵視するのではなく、利用する方がいいのではないか、と。

 監督のガンプラとそのファンへの敵愾心というのは、ファンがガンプラに向けているものを自分に、作品に、『ガンダム』に振り向かせたいという意思であると思うのですが、そもそもガンプラモビルスーツを作り出したのも大元的には監督であり、それも自分(の作品)の一部だとは思えていなさそうなのはなんでなのだろう、と。

 『∀ガンダム』の、過去のMSを発掘するという、過去のキャラクター資産を活かせる設定を作りながら、それを必要最低限しか使わず、登場を予定されていた過去のMSも新規デザインの別MSに変えてしまうというのには、作品のカラーに沿わせるなど様々な意味があったでしょうが、モビルスーツというキャラクターを強くしすぎない、飽くまでストーリーを主体に置こうというコントロールが伺えます。

 それを許した周囲をどう捉えるか、というのも個人的には難しいところです。私は好き嫌いはさておき、富野ガンダムについては『1stガンダム』が群を抜いて面白いと思っておりますが、その理由としては、あの時点では富野監督が神格化されてなかったというのがあって、誤解を怖れずに単純化して言うと、例えば安彦さんとかと役職の違いはあれど、1スタッフとして対等な立場で殴り合いながら1stは作られていて、Z以降は殴り合える相手がいないまま、神様として祭り上げられて孤独に作っていたからなんじゃないか、という気がします。
 監督自身はどこかでそれがよくないことだと分かりつつ、戦う相手を探し求めたり、若いスタッフをそう育てようとしてたようにも思うのですが、永野護のような存在が出てきて「おっ」て殴り合おうとしても、なんだかんだで周りが退場させちゃって試合すらまともにできないレベルで神様になってた(されてた)と思うのですよね。
 富野監督に制限を与える存在としてはガンプラを売りたいスポンサーというのもいるにはいたですが、それは切磋琢磨とは別のぶつかり合いだったような気がします(それはそれで面白かったのですが)。

大昔、人間と神々は助け合っていたの。でも、聖書とコーランは神を一人ぼっちにしてしまったわ。だから彼は気が狂ってしまったの。たった一人で‘完全な存在’になろうとして。


 ……こんな印象です。

 あと、富野監督の小説を読んでいても、アニメ的な制約から解き放たれた富野監督というのは、面白いけれど一般的なエンタテインメントとしての面白さではない、凄くカルトな方向に行ってしまっているように感じていて、いい意味でのそれの制限があった方が、切磋琢磨しブラッシュアップするスタッフが一緒にいた方が却って活きるように思うのです。いやこれは単に私の好みの話かもしれませんが。

 閑話休題

 『∀』で既存のMSがほとんど発掘されなかったことは、作品に視聴者を引き込むキャッチ力をも喪わせてしまったようにも思えますし、それで引っかかるような旧来のファンはそんなのがなくても見るからそもそもそういうキャッチーさは必要ない、逆に新規ファンが引いてしまうリスクを避けえたとも思えます。しかし一方で、過去のMSの商品を『∀』登場に合わせて再発売するというようなビジネス的な機会もみすみす逃させてしまいました。

 それが『∀ガンダム』という作品にとってよかったのか悪かったのかを確かめる術はありませんが、既存のMSをもっと出していたとしても、個人的には、作品の完成度や受け取られ方はそれほど変わらなかったのはないか、という気はします。

 そして、富野監督がそうしなかったというのには、商業的に成功することよりも、モビルスーツというキャラクターにストーリーで勝ちたい、という作家的な欲望があったからこそなのではないか、と私は考えるのです。

 見てもらいたい、成功したいというだけなら、キャラクターを使えばいいと思うのです。玩具を使えばいいと思うのです(『妖怪ウォッチ』の日野さんも「身の回りに置いたり、身に付けたりできるアイテムというのは、感情移入してもらうためにも大事ですし、おもちゃ展開があることで、ブームを作るためのたくさんの協力者が生まれるんです。」と言っています http://www.famitsu.com/news/201404/21051460.html )。人気の漫画やゲームを原作に使えばいいと思うのです。ガンプラでもSDでも、モビルスーツという自らが生み出した稀代のメガヒットキャラクター群を使えばいいと思うのです。

 でも、富野監督はそれをしない。してこなかった。それは、商業的に成功することや、作品を通してメッセージを多くの視聴者に届けるということが、富野監督の主目的ではないからなのではないでしょうか。私にはそう見えます。

 『Gのレコンギスタ』を子ども向けに作る、という発言もそうです。子どもたちに見せたい、伝えたいことがあるというのは勿論真意でしょうが、そこにはそれ(伝えたい
以上に、子どもたちに届くストーリーを作りたい、という作家としての欲望があるように思うのです。

 作品だから伝わること、伝えられることがあるのも事実でしょうが、それ以上に、そういう作品を作りたいだけなんじゃないかと思うのです。富野由悠季という人は崇高な目的を持った人格者などではなく(いや勿論そうでもあると思うのですが)、根本的には創作への欲望に沿って動く人であり、そこに最大限の好ましさを感じつつも、合理的でないバカな人、だと私は思っています(失礼極まりない物言いですが、そういう人だからこそここまで精力的に創作活動が出来るのだと畏怖と尊敬もしております)。

 子ども達に伝えたいことがあるなら、手段を選ばず、原作ものとか、『妖怪ウォッチ』とか、『SDガンダム』とか『ガンダムビルドファイターズ』を利用して、その監督をやった方がいいと思うのですよね。オリジナルの、リミッター解除した物語は小説とか劇場版で思う存分やって、TVシリーズはオリジナルでなくていいので、とにかく数と視聴機会を増やして、富野節を見聞きさせた方がいいんじゃないか、と思うのです。こういうこと思っちゃう辺り、根本的に富野ファンではないんでしょうけどね、私。

 などと書いているうちに、バンダイチャンネルでの『Gのレコンギスタ』の配信が始まりましたので、見てきます。



 バンダイチャンネルで1、2話を見てきました。



 おーもーしーろーいー! (平伏)

 アニメがアニメになっていく過程で忘れられつつあったテレビまんがの面白さがここに。恐ろしくテンポがよい。
 多分、ある日突然テレビつけたらやってるどこか1話だけ見ても面白いタイプですねこれ。

 アイーダさん超美しい。一方で主人公のこと好きっぽいチアのセンターの子が報われなさそう可愛い。みんな生っぽくて、途切れない会話が心地よい。

 見てて楽しいです。

(続く)

富野ファンではない僕と、Gのレコンギスタ(その5)

 さて。『Gのレコンギスタ』の本放映が始まりましたが、私はまだ見ていません。



 1日違いの地上波TV放映に「ネタバレすんな」「お前らだっていつもしてんだろ」やんややんやと関東と関西の方々が天上の争いをしておられる遥か数日〜1週間後、BSの放送も終わり、ネタバレとか今更なにそれ? ってなった後に、お金払って地デジ以下の画質音質のネット配信で番組を見る、(衛星)アンテナ無しのアンダー地方人もいるということを、どうか覚えていて下さい……。

 なんか書いててほんと惨めな気分になってきますね…。別に作品に対してお金払うのはいいんですけど、払わなくても作品視聴可能なサービス受けられてる人達を横に見ながら、自分達だけお金を払って、その人達より後から、しかも1段劣るサービスを受けるっていうのには、やはりつらみがあります。

 最寄りの映画館で上映してくれて、全国誰でも同じ値段で観られるならどれだけよかっただろう……。

 前もどこかで言いましたが、円盤マラソンするって決めた作品を、さらに地上波より遅い有料配信でおっかけるのって、放映圏の人の実況とかが目に入る環境だと金銭以上に精神的に辛くて、とてもじゃないですがやってられないです(前期『キャプテン・アース』のことです。先だって25話最終回を迎えましたが、円盤はまだ3巻までしか出ていません。8話です)。

 孤独に作品と1対1で接するならそれでもいいのですが、ネットやSNSを通じて、不特定多数の人達と一緒に同じ作品について語り合ったりする行為に慣れきってしまうと、集団の中にいる孤独というのを意識してしまってつらいですね。

 ネットが地方と中央を繋げ、通信とかSNSとかネット通販とかが色んな物をフラットにしてくれましたけれど、逆にネットによってある種の地方落差を以前より大きく感じることもあって、難しいものだなと思います。

 勿論、放映圏に住んでいる人達には別に何も悪いところはなく、別け隔てのないサービスを提供せずに地方落差を作り出している公式が悪いと言えばその通りなのですが、サービスを提供してくれる企業も慈善事業ではないですから、その在り方ばかりを責めるのもお門違いではあり、悩ましい。

 現状の『Gのレコンギスタ』なんかのような僅かな地上波と有料ネット配信が基本の放映形態の場合、放映圏外の地方民に対して「見て下さい」って薦めることは、つまりこの惨めさを許容しろっていうことであって、それに気づくような聡くて優しい人にとっては、そういう素直な応援が実は凄く難しい。

 先行上映で映画館の大画面で見て、さらに地上波で無料で見られてHD画質で録画することも可能な中央の人達が、これは面白いから地方の君達も数日遅れで有料だけど見ろっていうの、形だけ見れば凄い酷い。それが判る、作品を好きで且つ聡い人が素直に応援し辛い、人に勧め辛いっていうのは、作品に関わる皆にとって不幸です。

 ただ、考えようによってはこの視聴環境落差自体は色々なものを内包していて、違う立場のファンたちが、それぞれそれにどう接するかっていうのは、凄く富野的なミッションで、面白いことなんじゃないか、という気もします。

 地方人は貧乏くじ引いて気の毒だけれど、でも『Gレコ』は面白いから見ろ、見ない方が後悔する、悪いのはバンダイだ、でもお金を払う価値は絶対にあるって開き直っちゃうのは1つの手だと思います。放映圏と圏外、置かれた状況への直接の責任はどちらにもないのは確かですし。理不尽に感じるかもしれないけれど、それはそれでしょうがない。割りきってそれぞれの立場で楽しむのは、ベストではないかもしれないですがベターな正解の1つでしょう。

 或いは、バンダイや放送局を変えよう、動かそうってする。どうすればいいかを考える。

 ……これはほんと情けない、個人的な恨み節になってしまうのですが、富野ファンを自認して、子供達に見せてあげたい、監督の願いを叶えたいと願い、尚且つ先行上映で観て『Gレコ』を傑作だと確信したっていう中央のアーリーアダプターの人達には、本放映までの1ヶ月の間に、上映館や放映圏拡大を訴える署名活動とかをして欲しかったのですよね。個々人で要望書をバンダイや放送局に送るのでもいい。雑誌やラジオに投稿しまくるんでもいい。円盤すら出ないマイナー作品のファンがそうしてきたような、草の根レベルからの活動であってもやって欲しかった(勿論そうしている人達もいると思いますが)。古い話ですけれど、『踊る大捜査線』がシリーズ化したのはフジテレビに再放送を求める複数のハガキが届いたからこそでしたし、最初の『ガンダム』だって、署名活動と嘆願書によって再放送を勝ち取っています。WEB上で話題にしようと頑張ってる方はいっぱいいて、それも勿論素晴らしいのですが、その労力の何割かをハガキを書くことでいいので、リアルな活動にも向けて欲しかった(ネットだってリアルだと言われればその通りなんですが、現状でネット上の活動っていうのは、ハガキを1枚出すよりずっと弱いと思います。某BD化企画に於いては、WEBの15000票はハガキ換算で500票として扱われました)。



 そんなの、見たい地方人のお前がやれというのはその通りなんです。

 ネットやSNSで「面白いよ!」「見て!」って言う当たり前のファン活動に、「俺らにだけ金を出せ」っていうのかって僻みを感じるっていうのも、筋が通ってない身勝手な情動です。



 でも、前述の地方人の惨めさとその理由のなさがあって、その上で更なるコストを負うのって、ちょっと私には出来なかった。なんで自分達だけがって思ってしまった。本当に情けない話なんですが、何もしないで自分達以上の待遇を得られている中央の人達に対して妬みやそねみを抱いてしまった。頭ではその人達は悪く無い(というか関係ない)、自分達の問題だと分かっていても、自分達だけが血を流さなければならないことに納得できなかった。どうせコストを払うなら有料配信で見るのも一緒だと日和る気持ちもあった(それだと自分はいいけど子供達は見られないのに)。

 前回は書かなかったですけれど、富野監督の「貴方たちの子供に見せて下さい」っていう発言を初めて聞いた時、単純にそういう、ファーストガンダムの時にファン達がしてくれた署名活動を期待しているんじゃないかっていうのも、ちらっと思ったのですよね。再放送を勝ち取ったように、放送枠、配信枠を勝ち取って欲しい、というような。なのにそれをしない中央のファンというのは、自分達は見られるならそれでいいと思っているんだろう、なんて邪推とそれによるどす黒い怨念を抱いてしまった。勝手な妄想からほんとひどい話なんですが。きっと、そういうことを思うのは、私が視聴可能な立場であったらそういう風に自分が良ければいいという類だからで、多分その立場であっても何もしない人間だからこそで、勝手極まりないですね。自分がやってないことを他の人にやって欲しいなんて、ほんと身勝手で、クズ過ぎる。

 中央の人達にも血を流して欲しかった。それは、俺が不幸なんだからお前らも不幸になれっていう、理不尽極まりない感情や姿勢にも繋がってることで、本当は誰も血を流さないで済む方向を模索するべきだし、誰かが流さなくてはいけないのなら、せめて自分がっていうのが立派な大人の態度であって、自分が捨て石になるのだとしても、その結果、自分以外の地方の子ども達にも見せられるならそれで納得するべきだっていうのも頭では理解ってる。

 でも、僕はそこまで人間ができていなくて、本当に情けない限りなんですが、自分からことを起こすことが出来なくて、こんなところで愚痴っている。

 なんで立ち上がらないのか、という問いに、自分はそこまで富野監督を好きじゃないからだ、冒頭10分を見た限り、『Gレコ』を面白いと思えないからだ、なんて嘯いてね(だからこのシリーズもこんなタイトル)。

 冒頭10分じゃ決められなかった、という言い訳は本編を見てしまったら通用しません。覚悟を決めなくてはなりません。

 WEB配信まで、あと少しです。

(続く)

※今回だけですます調なのは、この話は本来枕であって、別に本編の昔語りがあったからなのですが、思ったより長くなってしまったので、今回はここまでで、それはまた次の機会に。

富野ファンではない僕と、Gのレコンギスタ(その4)



 これはおっさんオタクの、印象論に依る、妄言である。
 




 商品としての「ガンダム」、キャラクターコンテンツとしてのモビルスーツが岐路に立たされている、と前回書いた。

 モビルスーツというキャラクターと、それを表現し消費者の手元に届くガンプラという商品は社会現象レベルでヒットし、今日まで隆盛を続けてきているが、結局のところ、キャラクターコンテンツとして大成功したと言えるのは、『1st』〜『逆シャア』くらいまでの連邦とジオンのモビルスーツ群と、”ガンダム”という記号化したキャラクターであって、『F91』のクロスボーン・バンガードモビルスーツ群以降、平成『ガンダム』や『∀』『SEED』『OO』『AGE』に至るまで、ジオン軍モビルスーツ群やガンダムガンキャノンガンタンク、ジム以上に認知されたモビルスーツ群はいない(検証したわけではないので偏見と言われればその通りである)。

 誤解を恐れずに言えば、『F91』『V』以降の敵モビルスーツ群は市場に受け入れられなかったということだ。これはプラモ以外のTVゲーム等の娯楽の隆盛もあるし、1/144が主流だったそれまでのガンプラの流れを一旦リセットして、従来の1/144よりも大きく1/100よりは小さい、小型MSの1/100キットを主軸にしてガンプラを仕切り直そうとしたF90〜Vのバンダイの試みが巧く行かなかった為でもあるが、単純に、旧来のザク等のモノアイを持ったジオンモビルスーツ群のキャラクターの強さを、クロスボーン・バンガードのゴーグルMSやベスパの遮光器目MSでは継承も超えることも出来なかったということでもある(個人的にはとても面白いデザインだと思うのだけれど)。

 21世紀の1stガンダムを目指すとされた『SEED』が続編の『DESTINY』でザクやグフ、ドムのリメイクモビルスーツを出したというのも、『UC』が1st〜逆シャアに出てくるMSやそれに連なるMSをメインとするのも、結局、キャラクターコンテンツとしてジオンのモビルスーツ群を超える新たなキャラクター群を生み出せないという悲鳴や諦めのようにも見える。

 新作ガンダムにおけるMSがジオンMSのようにキャラクターとして根付かないというのは、放送が終わればそれがさっぱり売れなくなるということでもあり、ディズニーキャラクターやサンリオキャラクター、ポケモンのような、長く愛され続ける普遍的なキャラクターシリーズとその拡大足り得てはいないということで、初代の大ヒットから続いてきたモビルスーツというキャラクターコンテンツは緩やかに終わりに向かっているように感じる。

 TV放映もされていないのに売れ続ける、ザクを始めとする初期作の宇宙世紀モビルスーツがキャラクターとして規格外なのは確かだが、新作ガンダムには登場しない(わけでもないのだが)以上、新規にそれを知る子どもたちというのは目減りする一方であり、売上は購入層の高齢化で短期的に上がったとしても(MGをはじめ、マニアックで高価な商品が売れ線となっている今がその状態である)、購入層全体の先細りは避け得ないだろう。

 モビルスーツ全体ではなく、ガンダムというキャラクターを活かす方向で、現在のスーパー戦隊シリーズ仮面ライダープリキュアのように、毎年ガンダムを放映し、シーズン毎のガンダムをその時々の子どもたち相手に売るという方法もあるだろうが(実際、ある時期に於いてバンダイバンプレストガンダム仮面ライダーウルトラマン等のヒーローのような普遍的な子ども向けのキャラクターとしようとしていた節があり、ゲーム内で共演させるなどしている)、作風や視聴者層や制作体制の違い等様々な理由があったのであろう、そういう風にもならなかった。

 『ガンダムAGE』というのは、そんな中、既に『ダンボール戦機』『イナズマイレブン』等で、かつての、そして本来的に想定されたガンプラファンと同じ層に対してスマッシュヒットを飛ばしていた日野晃博を投入し、少年向けコンテンツ雑誌としてはNo.1の「コロコロコミック」とタイアップし、形的には万全の体制で子ども達の方を向いた新「ガンダム」だったが、残念ながら、想定されていたような商業的な大成功とはならなかった。

 キャラクターコンテンツとしての「ガンダム」の先細りは日野晃博でも止められなかった。しかし『AGE』がダメだった一方、日野さんの別の仕事、『妖怪ウォッチ』は空前の大ヒットを飛ばしている。

 僕がバンダイの人だったら、日野晃博はダメだ、ではなく、「ガンダム」は子ども向けコンテンツとしてはもうダメだ、という認識になると思う。

(『AGE』がうまく行かなかったのには、現場レベルで日野晃博のアイディアが「こんなのガンダムではない」と受け入れられず通せなかったというのもあるようだし、その意味ではガンダムであることがデメリットとして生じた、というのは一面の事実であろうし。……個人的には、『AGE』が失敗したのはコンテンツ「商品」を作らせるべき日野さんに『作品』を作らせたことが理由と考える。ここの混同とミスマッチは初代からずっとガンダムが抱えてる問題だと思う)。

 また、聞くところによると、コロコロコミックにおける「ガンダムAGE」の記事はアンケート下位で、理由として、子どもたちが『「ガンダム」』を自分たち向けのコンテンツだとは思わなかった、というのがあったらしい。『妖怪ウォッチ』の人気の理由の1つに、「ポケモンと違って色々言ってくるうるさい大人がいないから」というのがあるそうだが、似たような構造だろう。ガンダムにはポケモン以上にうるさい大人が多すぎるのは確かだ。かつての子ども向けの玩具としてのガンプラの役割を果たしているのが今では「ダンボール戦機」なのにも、それがガンダムではないからという理由があると思う。

 「ガンダム」が岐路に立っている、というのはここだ。誤解を恐れずに言えば、子ども向けコンテンツとしてはもう先が殆どないという市場判断が為されている。しかし一方で、ザクをはじめとしたジオンモビルスーツガンダムというキャラクター群は当時子どもだった現在の大人達には今持って人気であり、購買力も高い。この前提の中、少子高齢化が進む中でどういうビジネスとして、キャラクターコンテンツとして「ガンダム」存続させていくのか、或いは終わらせるのか、それとも…。

 『「UC」』や『「ORIGIN」』は、一見、高齢者向けの商品としての映像ソフトとして作られているように感じられるが、これらには別の役割もあるように僕は思う。
 即ち、『F91』以降に設定された新規モビルスーツ群をキャラクターコンテンツとしては失敗と切り捨て、過去の成功例である『1st』〜『逆シャア』の頃のモビルスーツにスポットを当て直し、改めてそれらを集中して売っていく為の仕切り直しである(『ポケモン』シリーズに喩えるなら、『赤・緑』に対する『ファイアレッドリーフグリーン』以降のリメイクシリーズである)。

 『ガンプラビルダーズ』『ガンプラビルドファイターズ』も同様だ。既に資産としてある膨大なキャラクターを、既存のファンに向けて訴求すると共に、新たな顧客に紹介し届ける為の市場開拓の意味合いがそこには感じられる。

 いわばそれらは「ガンダム」のルネサンスだ。

 バンダイは新たなガンダムシリーズを創造して行くことにある程度の見切りをつけ、過去への回帰に向かおうとしているように見える。

 そんな流れの中で、敢えて新しい『ガンダム』を作り、それにレコンキスタの意味合いとタイトルを付けてしまうのが富野由悠季という人である。

 わくわくする面白さなのだが、バンダイから見ると、近年の氏の作品は地上波で長期間流した「Vガンダム」も「∀ガンダム」もガンプラに対する貢献度は低く、子ども向けのキャラクタービジネスとしては成功したとは言い難い。もっと言うと、富野由悠季という人は、1stガンダムという大黒柱を生み出してくれた神であると同時に、以来それと並ぶ商品をずっと期待し、ずっと機会を与えてきたにも関わらず、1度もそれを成し遂げてはくれなかった人でもあるのである(期待値が高すぎるだけで十二分にヒットメーカーではあるのだが、バンダイも富野本人もそれで満足しているとは思わない。バンダイは「商品」で「ガンダム」より売れるものを期待し、富野は『作品』で商品としての「ガンダム」より売れるものを作ろうとしたという齟齬はあるだろうが)。

 形的には万全を期した「AGE」が駄目だった上で、今更新しい「ガンダム」に、それを富野由悠季にやらせるということに、ガンプラを、キャラクターコンテンツを子ども向けに売るビジネスとして、どれだけの期待ができるだろうか。

 作品として評価され円盤が売れるのだとしても、子ども向けのキャラクターコンテンツとして期待できないのであれば、アニメを地上波で全国に流す旨味は薄い。それでもスポンサーがつけば(例えば『暴れん坊力士!!松太郎』が老人向けのスポンサーがついて早朝放映されたように)全国放映されたのだろうけれど、されなかったということは、それもなかったということなのだろう。

 テレビ視聴を巡る諸々の変化や『AGE』の不振などもあろうが、そういうことを言うならば『V』や『∀』は視聴率的、商業的にどうだったのかという話にもなるし、全ては邪推、類推に過ぎないが、なんにせよ、現状の富野「ガンダム」の新作に、地上波で全国放送する商業的な意義は見出されなかった。純粋にプラモを販促するために特化された『ガンプラビルドファイターズ』の方にリソースを割くのは、キャラクターコンテンツをガンプラを販売する会社としては至極当然の判断だろう。

 『Gのレコンギスタ』が深夜アニメだというのは、多分、そういうことだ。ガンプラやスポンサー収入で利益を回収するのは無理だが、DVD/BDや有料配信で映像そのものを販売するモデルならば採算がとれるという判断。

 キャラクターコンテンツとしての期待はもうされていない。しかし、映像そのものは商品となる。ある意味それは、キャラクターコンテンツとしての「ガンダム」「ガンプラ」の呪縛から、富野由悠季と『ガンダム』がようやく逃れられたということのようにも思える(『ブレンパワード』や『キングゲイナー』、そして『∀』で既にそういう状態にあったとも言えるが)。

 しかしそれは同時に。かつて『ガンダム』や富野を自分のような子どもたちに届けた「ガンダム」「ガンプラ」の庇護を失ったということでもある。にも関わらず、富野由悠季は『Gのレコンギスタ』を子どもたちに見せたいと言う。糖衣錠の糖衣を失った薬、剥き出しの富野由悠季と『ガンダム』がどこまで通用するのかというのは正直未知数だ。或いは、「ガンダム」ではない新たな糖衣を作り出し纏うということなのかもしれない。Gはガンダムではなく元気のGである、という宣言には解放感があった。

 しかし『Gのレコンギスタ』はいつの間にか『ガンダム Gのレコンギスタ』になっていた。

 前述のコロコロの事例の通り、ガンダムの名前と知名度は既存の高齢ガンダムファンには訴求力があるかもしれないが、子ども達には寧ろマイナスに働きかねない。にも関わらずガンダムを名乗って子ども達に挑む(ガンダムの名は富野監督が望んだのか否かはわからないけれど)。

 正直、無謀だと思った。

 ネットで配信された冒頭10分を見た時、それは従来と同じ富野由悠季アニメの1つとしか感じられず、これは駄目だと思った。これが子どもたちに届くというなら、『Gレコ』以上の好条件で地上波放映されていた『Vガンダム』『∀ガンダム』だって『ポケモン』や『妖怪ウォッチ』のように、最初の『ガンダム』の時のように子どもたちを巻き込んで大ヒットしている筈だし、中高生向け深夜アニメだとしても、『けいおん』や『まどか☆マギカ』のように話題になり拡がっていくビジョンというのが個人的に全く見えなかった(3話までの先行上映を見た人達の反応を見ても、安定の富野アニメだと安心する人ばかりで、「これはヤバイ」的にプリミティブに大騒ぎする人を見なかったのも大きい。作風も作品スパンも違うので当然と言えば当然なのだけれど)。嫌な汗がだらだらと出た。

 勿論、『Vガンダム』『∀ガンダム』の時とは時代が違うし、富野作品やガンダムに慣れきった自分のような高齢者とは違い、今の子どもたちの目には改めて富野アニメ、『Gレコ』は新鮮に映るのかもしれない。Gセルフは正直あんまりかっこ良くないと思ったけれど、新ガンダムは毎回のようにそう思っていても最後には大好きになっているし、人物や台詞回しは魅力的だし面白いし、ある意味のエキセントリックさも海外ドラマと同じ様に受け入れられるのではないかとも感じる(前言撤回。冒頭10分を見た時、『Gレコ』の女性キャラは男性よりも女性に受け入れられるのではないかというようなビジョン、予感だけはあった)。

 しかし、経路がない。『けいおん』のヒットには深夜とは言え非常に広かったTBSの放送網が影響しているし、『まどマギ』のヒットにはニコニコ動画での無料配信が大きく絡んでいる(話題になった3話放映時点で1、2話が無料配信されていたので多くの視聴者がそれで追いつくことが出来たと記憶している)。『Gのレコンギスタ』にはどちらの条件も満たしていないのだ。

 とは言え、深夜アニメではなかったが、全国放送ではなくWEB配信なども無かった時代の『エヴァンゲリオン』がヒットしていった前例もある。それに、『コードギアス』のように深夜アニメで始まっても2期で放映時間が変更されるということもあるし、作品の人気次第では覆せるのかもはしれない(……でも無理だ、と現時点での僕は思ってしまう。冒頭10分を見た時に、これはまずい、宮崎作品のように嘘でも引退作品とか言って煽らなくていけないのではないかと思ってしまった。ファンは今すぐにでも署名活動して上映館を増やしてくれるよう、放送局を増やしてくれるよう嘆願しなければならないのではないかと思ってしまったのだ。しかし周囲の冒頭十分や先行上映を見た富野ファンの人達は焦っていなかった。大丈夫だと言っていた。全くそう思えなかった僕は富野ファンではないのだとその時悟った。純粋に作品を見れていなかったし、改めて見直しても、コレはとんでもなく面白いから人に薦めよう…! というような気持ちにはなれなかったのだ。…本編を見れば僕にも違うビジョンが見えるのだろうか。そうなることが楽しみでもあり、そうならないことが怖くもある)。

 そもそも、円盤を売ることを前提とした深夜アニメ的なビジネスモデルで子供向けアニメを作って、それを不特定多数の子供達に視聴させるなんて現状では不可能に近いと思う。親が円盤を買って子どもにそれを見せるような育児スタイル(米国のベビーシッターのバイト形態にそういうのあったと思う)が一般化していれば或いは可能かもしれないが、現状はそうではない。いや富野監督のことだから、『Gのレコンギスタ』でそういうアニメの新しい視聴スタイルを創りだしてやろうくらいのことを考えているのかもしれないけれど。

 そう考えると、高齢者向けに対して監督が言った、「あなた達の子どもに見せて下さい」は、現状のアニメのビジネスモデルの中で子ども達に自作を見てもらう為にした、大真面目な発言だったようにも思える。親が子にアニメを薦めるという形を創り出す。ミニ四駆ゾイドリバイバルされ(再)アニメ化された時の一部の親子関係のように、「ミノフスキー粒子ってのはな…」なんて親と子で番組に対しての会話が生まれたりするのを想定しているのかもしれない。

 子どもたちにお金を出させるのではなく、スポンサーに阿るのでもなく、高齢者の作品ファンがお金を出し、若年者にそれを見せるというスタイル。教導的であるが、そういった親の「見せたい」からの始まりでも、子どもが続きを「見たい」と思えるなら勝ちであり、そういうことが出来る勝てると踏んでいるのかもしれない。

 実際のところ、富野監督が『Gのレコンギスタ』に対して、どういう結果、勝利条件を望んでいるのかはわからないけれど、それは対世間、対世界に対しての相当に大きなもので、物凄く達成が難しいものなのではないかと思う。

(少なくとも『ブレンパワード』や『キングゲイナー』のように、円盤がある程度ヒットして、アニメファンの中で名作認定されるなんてチャチなものではないだろう。端から見ると凄く立派な実績だと思うのだけれど)

 でも、富野由悠季のそういう挑戦に、出来ると信じて進む姿に、どうしようもなく惹かれてしまうのもまた確かだ。

 不安と期待を抱きながら、『Gのレコンギスタ』本放映を待っている。

(続く)

富野ファンではない僕と、Gのレコンギスタ(その3)



 今更ながら、これは、飽くまで僕にはこう見えていた、こう思っている、というだけの話である。事実誤認や勘違いや偏見は多分に含まれている。





 その1その2でも書いてきたけれど、商品としての「ガンダム」の肝とは、モビルスーツであったと僕は考えている。
 それは現代における『妖怪ウォッチ』における妖怪や、『ポケットモンスター』におけるポケモン、『アンパンマン』の種々のキャラクター達、『艦隊これくしょん』における艦娘などと同じかそれ以上に、稀代のキャラクターコンテンツ群であったのだと。

 しかし、ここまで「ガンダム」という商業キャラクターコンテンツの人気が続くとは、それを売ってきたバンダイでさえ予想はしていなかったのではないだろうか。だからこそ続編である『Zガンダム』が作られるまでの年数、ガンダム以外の商品、ポスト「ガンダム」、ポスト「ガンプラ」、モビルスーツに続く新たなキャラクターコンテンツのシリーズを求めた続けたのではなかっただろうか。

 MSV、モビルスーツバリエーションというものもあったが、それは「ポケモン」に例えれば初代の『赤・緑』に対する『青』や『ピカチュウ』Ver.のような初代のマイナーチェンジ版であって、コンテンツの継続・拡張の為のものでもあったろうけれど、それ以上に、初代、「1st」を、その賞味期限が切れるまでに使い尽くそうというような意図の企画・商品であったのではないかと思うのだ。
 その間に「ガンダム」や「ポケモン」ではない新たなヒット作品(商品)を生み出し、そちらにリレーし、また次の作品に――という流れを想定していたのではないだろうかと。

 しかし、結果的にポスト「ガンダム」、ポスト「ポケモン」が期待したレベルの商品として根付くことがなく、同時に「ガンダム」「ポケモン」の人気がそれら以上であったが故に、ポストの別作品ではなく、それらの直接的な続編、「Zガンダム」や「金・銀」が作られることになったのではないか、というのが僕の見立てである。

 さて。この見立ては、商品として「ガンダム」や「ポケモン」を見た場合、スポンサーや「ガンダム」ファンが期待していた「作品」展開の話だ。当然のことながら、『作品』を作ったり見たりしている側の見解とはこれは一致していないだろう。

 ガンダム以後、富野由悠季がどれだけスポンサーの要請に応えその意図通りの「商品」を作ろうとしていたのかは定かではない。が、常に「商品」よりも『作品』を作ろうとしていたように僕の目には映る。

 そもそも「ガンダム」のガンプラ、特にジオンのモビルスーツ群のヒットは意図したものではない。怪我の功名だ。『作品』としての『ガンダム』の初期構想では、敵のモビルスーツはザクだけの筈だったのだ。それがスポンサーの要請で、グフ、ドムをはじめとする局地戦用機体や、ゴッグズゴックなどの怪獣然とした水陸両用モビルスーツ群、モビルアーマーといった、バリエーションに富んだキャラクター達が生み出され登場させられたわけであるし、遡っていけばモビルスーツという巨大ロボットそのものが、ロボットアニメという枠でスポンサーをだまくらかして『SF物語』をやろうという妥協の産物であり、SF側の人間からSFではないと批判された(スタジオぬえにSFをやるからと言って考証やパワードスーツのデザインを協力してもらっていながら、それが玩具然とした巨大ロボットのモビルスーツガンキャノンの原型となるなどで軋轢もあったらしい)、本来であれば抹消したい、『作品』にとっては余計で不必要な部分なのだ。

 自分達が生み出したものとはいえ(中には富野由悠季自身のラフ・スケッチから生み出されたキャラクターもある)、嫌々作中に出したキャラクターが大ヒット、スポンサーや「ガンプラ」「ガンダム」ファンには『物語』や初期構想そっちのけでそればかりを評価されるという状況は(「ガンプラ」ファンが喜んであれこれ話しているガンダムセンチュリーやMSVの設定は勝手に後付されたもので、自分の創りだした『作品』のそれではない二次創作ということもあり)、富野由悠季にとっては、幾ら商業的に成功したとしても、多分に面白くはなかっただろう(いくらプラモが売れても自分にロイヤリティが入ってこないなら尚更だ)。
 しかも「ガンプラ」ブームの規模は小学生男子を中心に社会現象化し、再放送を求めるなどの地道な活動をして作品を応援してきてくれたファンたちが支えた『ガンダム』ブームを喰う勢いだったのだ。
 世間的に認知されるのは作品としての『ガンダム』ではなく、商品としての「ガンプラ」であるともなれば、『ガンダム』ファンは大好きだけど、「ガンプラ」ファンは大嫌い、となるのは至極当然の成り行きであろう。

 偏見かも知れないが、そんな状況の中で、そんなまぐれ当たりの「商品」をもう一度とか、「ガンダム」みたいにうちの玩具も売ってくれみたにに言われて(最初から主役ロボのデザインがスポンサーに決められていた『イデオン』『ザブングル』ってそういう感じだと思う)、富野由悠季という人が素直に従うとは僕には思えない。

 当然のように『作品』で「商品」を喰い返してやろうと思っていただろうし、「商品」キャラクターコンテンツ群を作るとしても、「ガンダム」の時にスポンサーに言われたままにそうするよりも(白いモビルスーツである筈のRX-78ガンダムトリコロールカラーに塗れ、とかね!)、誰にも思いつかないようなユニークなそれを『作品』としても成立させてやろう、くらいに思っていた筈だ。『イデオン』の重機動メカなんかそういう野心がアリアリと見える。

 「ガンダム」の実績があったのだ。スポンサーに「これが売れるんです」と富野が言えば、『作品』でも「商品」でも通せる余地はなくはなかったのではなかろうか。『イデオン』『ザブングル』『ダンバイン』『エルガイム』――、この頃の富野アニメはイケイケで攻めている感じがして、活き活きとしているように思う。

 しかし、結果として、富野由悠季ガンダム後に世に出した『作品』も「商品」も、「ガンプラ」ブームを、「ガンダム」を超えることは出来なかった(重機動メカやオーラバトラーが商業的に成功しなかったのは、当時の玩具メーカーの――というか業界そのものの――技術が富野のコンセプトやデザインに追いついていなかったという要素も強く、今の技術で作っていれば或いは、とも思うのだけれど)。

 イレギュラーである「ガンダム」を、新たな『作品』、若しくは計画的な「商品」で超えよう、としたであろう富野由悠季の試みは悉く失敗し、その果てに、”もう新しいのはいいので「ガンダム」の続編を作って下さい”というような身も蓋もない依頼が来た、作家(&商品企画者)としての最後通牒を突き付けられた、というのが『作品』サイドから見る『Zガンダム』の企画立ち上げ時の状況なのではなかろうか。

 誤解を恐れずに言えば、作品としての『ガンダム』、そして作家としての富野由悠季はこの時、商品、キャラクターコンテンツとしての「ガンダム」に完全に敗北を喫したのだと思う。そしてその敗北の自覚があったればこそ、この時期の富野由悠季は狂っていったのではないだろうか。

 そして1stからの直接的な続編である『Z』『ZZ』『逆襲のシャア』が1st時程の規模ではないにせよ商業的に成功するも、時代を移し、非ジオンのイメージを持つMS群で新たに立ち上げた『F91』『V』で失速(モノアイのイメージを覆すクロスボーン・バンガードのMSのゴーグルや海賊的なデザインは本当に魅力的だったのに…)、『Gガンダム』から非富野の『ガンダム』が作られ、富野自身の手により『∀』という『ガンダム』最終章が作られるが――富野は『ブレンパワード』『リーンの翼』『キングゲイナー』といった非ガンダム作品も手がけるが――、結局、この時の敗北は現在に至るまで覆されていないように僕は感じる。

 そして現在に至り、商品としての「ガンダム」、キャラクターコンテンツとしてのモビルスーツが岐路に立たされている中での、『Gのレコンギスタ』である。

 それは「ガンダム」への敗北が現在に至るまで解消されることがなかったからこその、作品としての『ガンダム』の、商品としての「ガンダム」へのレコンキスタなのではないか、等と考えたりもする。

(続く)

富野ファンではない僕と、Gのレコンギスタ(その2)

(その1)はこちら


 富野由悠季は歪められてきた、と思う。




 『機動戦士ガンダム』のファンには、映像、アニメーションドラマ/映画、作品としての『ガンダム』のファンと、プラモやSDといったモビルスーツというキャラクターコンテンツ、商品としての「ガンダム」のファンとがいる。モビルスーツだって作品の一部だし、映像ソフトだって商品だ。厳密には何が作品で何がコンテンツかなんてのをどこでそれを切り分けるかはとても難しいし、どちらのファンであることも両立するし、実際のところ、比率的に一番多いのは、その配分は違うにしろ、『ガンダム』と「ガンダム」両方のファンであるファンではあろう。

 しかし同時に、その両極に於いて作品の『ガンダム』と商品としての「ガンダム」の対立は非常に激しい。

 それは、商品としての「ガンダム」というのが、究極的に言うと、ようするに『妖怪ウォッチ』における妖怪や、ポケモンと同じ、キャラクター群と世界観のことであって、物語『作品』はそれを伝える情報媒体に過ぎず、ゲーム等で代替可能なものであるからだ。もっと言えば、それすら必要ない。「原作を見たことはない」けれどそのモビルスーツを作成するというガンプラモデラーは、決して珍しい存在ではない(但し、注意深く見ていくと分かるが、そのガンプラの原作は知らなくとも、何がしかの『ガンダム』――多くの場合は『1s』t――を見ているという場合が多い)。

 一方で、作品としての『ガンダム』にキャラクターとしてのモビルスーツは究極的には必要がない(実際、小説版の『逆襲のシャア』の1つ、『ハイストリーマー』の挿絵に於けるモビルスーツはキャラクター性が削ぎ落とされているし、小説版『イデオン』の挿絵に於けるイデオンもアニメ版とは全く違う<イデオンガンダムではありません)。別に宇宙戦闘機であっても、パワードスーツであっても『ガンダム』という物語、作品自体は成り立つだろう。

 極端な話、作品としての『ガンダム』に商品としての「ガンダム」は必要ないし、商品としての「ガンダム」に作品としての『ガンダム』は必要ないのである。

 けれど、ガンダムは『ガンダム』と「ガンダム」は互いを両輪に今日まで続いてきた。

 そこに、大きな歪みがあると思う。

 ガンダムが『作品』か「商品」か――なんてありふれた話題だし、今更どうでもいいことではあろう。

 だが、機動戦士ガンダムのシリーズは、そして富野由悠季という作家は、『作品』と「商品」の間で最も歪められてきた存在の1つだと思うし、『Gのレコンギスタ』という新しいガンダムもまたその歪みの中から顕れ出てきたように僕は感じている。だから、そういう話を少ししたいと思う。

 本来的に富野由悠季と作品としての『ガンダム』を支えているのは、『ガンダム』のファンである。『1st』の打ち切り終了後に署名嘆願活動を行い、再放送を勝ち取った『ガンダム』及び富野由悠季のファン達である。

 ここまでは純粋に『作品』とそのファンの関係であり、作品評価の結果が世間を動かした事例であろう。
 しかし、その『ガンダム』自身の作品評価によるガンダム人気の流れはそれに留まらず、プラモデル、ガンプラという商業コンテンツの出現によって、商品としてのモビルスーツというキャラクター群、「ガンダム」が爆発的にヒットすることによって、その流れは混沌の渦に飲み込まれていった。

 商品としての「ガンダム」を生み出し成立させたのは、作品としての『ガンダム』の人気とファン活動であると言えるが、その後に社会的なブームを巻き起こしたのはガンプラという商品としての「ガンダム」であるというのは、卵が先か鶏が先かみたいな話ではあるのだが、良くも悪くも、「ガンダム」ブームとそれが齎したり見込まれたりした商業的利益によって『ガンダム』は映画版が作られたのだと思うし、そこで成功を治めたことが、その後の『Zガンダム』等の新シリーズが作られていくような構造を形作るベースになってしまったと思う。

 バキ風に言うと、富野由悠季と作品としての『ガンダム』は、商品としての「ガンダム」に保護されている、というのが僕の見解だ。

 本来的には、『作品』の内容が良ければそれをファンが支え、悪ければそっぽを向く、作品の出来が作品と作家の未来を左右するという構造が、こと『ガンダム』と富野由悠季に於いては、その作品とファンの関係の構造ごと「ガンダム」が支え保護してしまう。
 喩え、富野由悠季の新たな『作品』がどんな駄作、失敗作に終わったとしても、「商品」としての「ガンダム」が成功を続けている限り、そのダメージは「ガンダム」が守ってくれる、という見方である。

 ただし、「ガンダム」が守っているのは「商品」の種としてのガンダム富野由悠季であって、『作品』や作家としての『ガンダム』や富野由悠季ではない。
 作家としての富野由悠季が死んだとしても、「ガンダム」という商品を作った富野由悠季は死なないということだ。
 その一方で、商品としてのガンダムの版権をサンライズバンダイに取られてしまった(売ってしまった)富野由悠季に、商品としての「ガンダム」の利益がバックされることは無いと言っていい。ガンダムのプラモやゲームがどんなに売れても、そのロイヤリティが直接的に富野由悠季に入ることはないのだ。

 その上で「ガンダム」、そしてその商業的な権利を保持するバンダイ富野由悠季を守りながら求めるのは、『作品』ではなく「商品」なのである。

 これは相当に歪んだ関係と構造だ。

 富野由悠季に「ガンダム」の生み出した利益が直接的に還元されなかったことはビジネスマンとしては不幸だが、作家としてはファンの『作品』評価に純粋に向き合えるという面もあったかもしれないし、「ガンダム」の成功を盾に、市場的な評価を余り気にせずに冒険的な『作品』を(比較的)作り易い、という利点のような面もあったかもしれない(なかったかもしれない)。後にガンダム以外の作品でガンダム以上の成功が収められていたなら、全てをひっくるめて、ある意味では幸運だったと言えたかもしれない。「商品」を求めるスポンサーを騙くらかして「商品」ではなく『作品』を作ったとしても、それが「ガンダム」と同等以上のブームになるのであれば、結果的に問題はなかった筈だ。

 しかし、ガンダム以降の富野由悠季作品は、それぞれ人気を得たが、『ガンダム』以上のヒットをしたとは言い難く、「ガンダムガンプラほどの社会現象を巻き起こすこともなかった。
 結果として、富野由悠季はそれらの失敗(むしろ成功だと思われる作品も多いのだが、本人が失敗作と言っていることもあるし、失敗とする)を商品としての「ガンダム」に守られ、しかしそれが故に商品としての「ガンダム」の続きを求められ、再びガンダムを作らなければならなくなったその時、この歪みは完成したように思う。

 歪みは完成した上で拡大を続け、その後のガンプラやSD、ゲームといった商品群は、『ガンダム』を見る前に「ガンダム」ファンであるガンダムファンを生み出し、遂には富野由悠季が携わらないアニメ作品の『ガンダム』「ガンダム」すら作られるようになった。

 それには様々な事情があろうが、『作品』としての『富野ガンダム』や作家としての富野由悠季の評価とは全く関係がなく、その頃の彼には商品としての「ガンダム」が作れないという、「ガンダム」側、バンダイから下された評価でもあったのではないだろうか。「ガンダム」の始祖という立ち位置はそのままに、「商品」開発者としての富野由悠季はここで一旦見切りをつけられたのではないかと思う。しかし作家としての評価自体は下がらず(「ガンダム」側は余り興味がなかったのかもしれないが)、この辺りから富野由悠季は作家として、或いは「ガンダム」の始祖として、大御所タレント的に、そして「ガンダム」の商品の1つとして扱われるようになっていったようにも感じる。

 そんな中で富野由悠季ガンダム以外の創作も続けたが、それがガンダム以上のブームを巻き起こすことはなく、作家としては彼やその作品の純然たるファンの評価に支えられつつ、同時に彼のネームバリューは商品の1つとして、商品の「ガンダム」を出し続けるバンダイに支えられ守られるようにもなってしまった、というような感覚だ。富野由悠季ガンダムの名があれば、作品の内容に関係がなく映像ソフトは最終巻まで発売されるであろう、という安心感と、その状況が作家としての富野由悠季に悪い影響を与えるのではないかという不安。

 最早、作品としても商業コンテンツとしてもガンダムは余りに巨大になり過ぎ、それを切り離して富野由悠季という作家、その作品を評価することは困難だ。”ガンダムの”富野由悠季作品という前提がなかったら、例えば『ブレンパワード』や『キングゲイナー』は今のような評価や売上であったか否かなど判別のしようもない(勿論、あらゆる意味でこれは無意味な仮定ではある)。

 極端な話、作品としての『ガンダム』が廃盤になってしまったとしても、商品としての「ガンダム」が続く限り、その始祖の1人として富野由悠季の名は永遠に残るだろう。生まれて初めて見たガンダム富野由悠季の『ガンダム』ではなく、見ないままにその『ガンダム』や「ガンダム」のファンとなり、作品としての富野『ガンダム』や他の富野作品を、ガンダムシリーズのグッズとしてコレクションするガンダムファンというのも、存在する。

 自ら生み出した作品の『ガンダム』から生まれたものではあるが、作品としての『ガンダム』よりもキャラクターコンテンツとしてのプラモやゲーム、「ガンダム」に興じるガンダムファンというのが、作家・富野由悠季の目にどう映っているのか、自分を半ば無視した上に金銭的には報わず、しかし自分を守ってもくれているガンプラや「ガンダム」、そのファン達をどう思っているのかというのには推し量れないものがあるが、幾つかの発言からは、憎悪にも似た感情も僕には読み取れる。

 そういった歪みの中で、求められるものと求めるものが齟齬を来しつつも絶妙なバランスで成り立って存在しているのがガンダム富野由悠季であり、『Zガンダム』以降、『Gのレコンギスタ』に至るまで、その歪みの中で、彼自身も歪み苦しみながら『ガンダム』の創作を続けてきたように、僕には見えるのだ。

(追記)現在では富野由悠季監督にも若干ながら『ガンダム』関連商品のロイヤリティは支払われているとのことです。よかった。何よりです。

(続く)