本日の呟き121120

ネットやあれこれを用いて生の感情を吐き出すことへの品性云々についてはZガンダム時点でカツやカミーユにやらせ、シロッコやサラの反応を通して語ってみせていた富野監督の先見性が云々。新訳だとそこら周りどうなっていましたっけねっと。

まどマギ見てるとゼーガ見たくなりますが、Q見てるとファフナー見たくなりますね。

世界規模の災害後に人類が生き残れたとして、マッドマックスや北斗の拳のようにテクノロジーが喪われ、腐敗と自由と暴力の真っ只中に放り込まれるのと、テクノロジーと陰謀に包まれて生存させられる未来を信じさせる楽観というのは、それぞれ何の信仰からくるものなんだろう。エバとかファフナー、ゼーガ、コッペリオンとかEDENとか色々。作者の生きてきた経験なのか、共通の敵への団結なのか、単に描いているのが終末ではなく今だからなのか。世界滅亡後のサバイバルなゾンビものの終末感なんかも興味深い。

ヨコハマ買い出し紀行みたいなゆるやかで穏やかな滅びみたいなのもあるね。

磯野家や野原家のようなかつての国民的な家族象みたいなものに相当するものとして、それぞれの世代にとってのネルフであったりSOS団であったり衛宮家であったりやる夫ファミリーであったり幻想郷であったりがあるんだろうなあ、というのをアスカ・シンジ・レイという三人に感じる懐かしさと安心感のようなものに思うなど。

でもこの三人が一緒に行動してたのって、「静止した闇の中で」くらいだよなあ…。本編をベーシックとしつつも、二次創作によって作られた膨大な彼と彼女たちの思い出が僕の中の彼と彼女たちを形作り支えているのが改めて面白い。

自分(達)の普遍性や理想像をアーキタイプに仮託することへの意味合いの変化というのは、割と明確に線を引けるのかもしれないね。自分をアーキタイプに当て嵌めるのか、アーキタイプを自分の意思に沿うように動かすのか。自分を削るか、世界を削るか、みたいな?

そういうのとはまた別に、傍観者、或いは観測者としてコミュニティを見詰めるというのはやっぱり女性が元々やっていたことで、主人公不在論とかはやっぱりやおい同人誌を論じるところから始めるべきだと思う。

改めて言うけれど、まどマギのまどかっていうのは物語の読者なんだよっていうような。まどかが視ている「魔法少女」というのは彼女が仮託する某かのアーキタイプであり云々かんぬん。

ここはグリーン・ウッド』のラストシーンというのを改めて考えてみるのもいいかもね。


なんか鬱い気持ちになるのは太陽光線が足りないせいだと思われるので太陽っぽい音楽とかなんか摂取するべきと思ったので『太陽〜T・A・I・Y・O〜』(ビーマニ曲)を聴くなどする。ヤベえやっぱこれいい曲だ。

あと太陽で検索したらぱんだはうすの微熱情熱の『太陽は沈み、また昇るから・・・アディオス!』が入っていた。これもいい曲。〜微熱情熱 一生楽して暮らしたい〜♪ 微熱情熱 一生遊んで暮らしたい〜♪