KEYネタバレ掲示板1999 その3

Kanonの現実受容と現実逃避

No.11673 by 雪駄 [sapcc-02p02.ppp.odn.ad.jp] at 1999/8/28(土) 04:17 削除(コメントを含む)



考察系で話題のKanonにおける現実受容について考えてみました。



Kanonの各シナリオにおいて、キャラクターが現実受容したことで起こった事って何でしょう?



それは羽あゆの消滅であったり、真琴の消滅を知る事であったり、栞の病を知ることであ

ったり、名雪を傷つけたという嫌な思い出であったり、佐祐理さんを傷つけた敵の正体が

舞自身だったりといった、辛い事ばかりです。



プレイヤーが感動するのは、その事を辛い事だと分かって尚、受け入れる祐一やヒロイン

の強さの部分なのではないでしょうか。

Kanonのシナリオにおいて心を揺さ振る部分って、なるほど現実受容ですね。



するとエンディングのハッピーエンドは、それをした祐一たちへのご褒美みたいなモノで、

そんなに辛い事を行った彼らが報われてもいいじゃないかという、予想される読み手の願

望を製作者が適えたものだと思われます。

だって、現実受容と起こった奇蹟の間には「フラグ立て」以外の関連性は殆ど皆無ですも

のね。

しかし、ある意味あのハッピーエンドはせっかく「辛い事を受け入れた」のに、その受け

入れた「辛い事」がチャラになってしまう。それで辛い事を受け入れた強さへの「感動」

もチャラになってしまうっていうんで、非難が集中したんじゃないでしょうか。

御都合主義的で説得力が無い、というのの他に、そういう要素があったんじゃないかな、

と自己分析してみたり。





ところで現実受容って正しいことでしょうか? 悪い事でしょうか?





取り敢えず、Kanonに置いてはそれがある種「痛い」ことは示されていますが、善悪を判断

したようなメッセージって、別にないですよね?

それが正しい、とか、それは間違ってる、とか、現実逃避してる人に対して他の誰かが何か

言った事ってないんですよね。



栞を妹と認めない香里や、あゆや祐一に「現実から逃げてる、受け入れろ」なんていう人は

誰もいません。秋子さんの事故で現実を拒否した名雪にも、祐一はそれを否定しきれてはい

ません。秋子さんも名雪も、事故という現実を忘れている祐一を責めてはいない。

現実受容の反対の現実逃避を完全否定し、現実に帰れっていうメッセージが無いんですね。

つまり、現実受容の積極的な肯定メッセージっていうのが無い。

むしろ現実逃避していれば祐一はなんの痛みも抱えず、幸せに日々を生きていく。

ゲーム的にはバッドエンドですが、祐一的には全然バッドじゃないっていう。

かといって、現実逃避を肯定しているかというと、それも違う。

舞にしてもあゆにしても、現実逃避してしまう理由がプレイヤーに分かるようにシナリオが

組み立てられていて、天野なんて、真琴の絡みで痛いくらいにそれが分かってしまう。一種、

現実逃避を正当化させるようにシナリオは組まれている。でも、彼女らがそれで幸せかって

いうと、絶対的にそうとは描かれていない。天野なんか見るからに不幸だ。

でも、ある種の現実逃避をして祐一と過ごす幻の日々を選んだ真琴や栞は幸福だったといえ

ないだろうか。羽あゆもそうだ。あれは現実逃避の産物だけど、祐一と幸せな日々を過ごし

ていなかっただろうか。見ているこっちが哀しくなったとしても。



現実の受容と逃避。

Kanonではどっちも積極的に正しいとも間違ってるともは描かれていない気がします。



ゲームのクリアの条件は受容の方なんだけど、それが誰が見てもハッピーエンドである理由

は、現実の受容とは物語的には無関係な突発的な奇蹟。

ということは、物語的には受容してなくても起こっていたかもしれないわけで(ていうか、

バッドエンドで奇蹟が起こっていないという事実も理由も無い)、この奇蹟は物語からは切

り離して考えられる。



切り離して考えると、現実を受容したキャラと逃避したままのキャラのどっちが幸せなのか、

どっちが正しいのかっていうのが全然見えなくなってくる。

#女の子と仲良くなれた分だけ受容の方が上と見てもいいけど(笑)。

これって、自分で考え、自分で決めろってことなんだろうなぁ。



ある意味無責任だけど、ある意味、凄く誠実ではある。



まぁ、素直にゲームの中くらい幸せな夢を見ようと思えば、痛みを自ら受け入れた祐一君に

は天使がご褒美の奇蹟をくれました、めでたしめでたしってお伽話に見られるんでそれほど

深く考える事でもないか。

ていうか、現実受容について云々考えるなら、まず自分の現実を受け入れるかどうか、てと

ころから始めりゃいいですな。その点で、避雷針さんのメッセージ系のスレッドが戦争論

体験談、政治、社会なんかの現実の話も交えられてどんどん我々の現実の話になっていって

いるのが興味深いです。



#この系統はやめるつもりだったけど…まぁ、なんとなく



No.11720 by SilentBells [ppp18.cats.ne.jp] at 1999/8/28(土) 16:36 削除


雪駄さん

あゆシナリオの考察をしばらく続けてみたことによる印象としては、

『A=現実、A×→A○』

という構造によって、Kanonという作品をうまく言い表すことが

できるとは、私には思えないのです。



例えば少なくとも、

『A=幻、B=真実、C=目の前の現実』

という構造は示されているというふうに読み取れました。そのことを

表層的と捉えずに、何か本質的な意味合いのあるものと捉えるならば

もう少し、別の観点からの作品の受け止め方ができると思います。



季節が移り変わるように、目の前の現実は刻一刻と移り変わります。

目の前の現実を直視しようと思っても、認識され、言葉として記憶に

留められた知識は既に現実ではありません。

『これが私にとっての現実だ。』と認識した時には既にそれは自分の

現実からかけ離れてしまっていることさえしばしばです。



そもそも、私達にとっての「現実」とは何か?っていう問いがあって、

そのことに答えるのは容易なことではないと思います。

・政治、経済、国家や戦争のことを語るのが現実なのか?

・人の死を生々しく語ることが現実なのか?



そこら辺のことは、哲学や現代思想の方にお伺いすると詳しく教えて

くれるかも知れませんが、軽めの読み物としてお薦めなのは、

『生と覚醒のコメンタリー(J・クリシュナムルティ、春秋社)』

です。4巻まで出ています。私は1巻で挫折しました(笑)が、良い本

であることに間違いはないと思います。エヴァとかブギーポップとか

そこら辺の作品が振りかざす精神論というのは、この辺の本が読めて

理解できれば、全く訳なく読解できると思います。



文章は平易ですので、誰でも読めますが、理解するのは極めて困難で

読解力を鍛えるのに良い素材だと思います。



ところで雪駄さんは、例えば、まだ夏なのに秋の訪れを感じることは

ありませんか? 紅葉を待つまでもなく、日の落ちる早さとか、風の

匂いとか…、まあ、農業とかやってらっしゃれば、もう少しはっきり

わかることとかもあるのでしょうけれど。



問いの立て方自体に無理があること、それ自体が私の伝えたいことを

含んでいるのですが、さて、まだ夏なのに、夏でないことを考える、

秋でないのに秋であるようなことを感じる、これは「現実逃避」なの

でしょうか? それとも「現実受容」でしょうか?



#BGM:「私は流行、あなたは世間(PSY・S)」



No.11753 by 雪駄 [sapcc-04p65.ppp.odn.ad.jp] at 1999/8/29(日) 01:49 削除


>『A=現実、A×→A○』

>という構造によって、Kanonという作品をうまく言い表すことが

>できるとは、私には思えないのです。



私にも思えません。

というか、Kanonという作品を表す言葉は「Kanon」だけで十分だと私は思いますが。

ただ、語るための物差しの一つとして「現実受容」は有りだと思います。

色んな人の考察とか感想を読んでいて、そういう風にも読み取れるなぁと思ったんですよね。



ただ、今回の私もそうですが、どういうスタンスで「現実」っていう言葉を持ち出してい

るかを明確にしていないのはまずったとは思います。



>『A=幻、B=真実、C=目の前の現実』

>という構造は示されているというふうに読み取れました



今回の私のスタンスは唯心論的な考え方で、否定されない幻は現実となり、否定された真

実は現実から弾かれ、無かった事にされる≠現実から消えるというモノです。

これ、私のすごい好きなお話のガジェットなんですよね(^^) 情報操作云々。



舞の魔物なんか、世間の現実からみると無いことにされてるけど、祐一と舞からすれば紛

れも無く現実。

でも魔物の存在は、舞の嘘への肯定の意志が作り出した舞一人の現実で、祐一が否定し、

残った舞も否定したとき、それは二人にとっても現実でなくなる。

舞の力は、自分の現実(強い力で肯定する幻)を真実に変換させる力で、舞が否定したら

真実は真実である事をやめてしまう…(げげ、ものすごく怖い力だ…)



Kanonは人のそういった風に現実認識という精神的な活動を、分かりやすく超常現象という

カタチで表したという何人かの方のKanonの見方は面白いな、と思ったので乗ってみたわけ

です。

製作者が意図した物として正しいか正しくないかはともかく、色々な角度からモノを見て

考えるのは楽しい事です。





>さて、まだ夏なのに、夏でないことを考える、

>秋でないのに秋であるようなことを感じる、これは「現実逃避」なの

>でしょうか? それとも「現実受容」でしょうか?



夏の定義ってなんでしょうね。



「この風は秋の風だね」

「そうか? まだ8月に吹いてるんだから夏の風だろ。異常気象でたまたま8月に雪が降

ったらそれは冬の雪なのか?」





Kanonで重要なのは、それが現実か幻かはともかく、最終的に嫌な事から目を背けなかった

事、なのかな。

それが間違いでも嘘でも、自分のやったこと、見たこと、感じた事から逃げないで、自分

の判断で、自分の為すべき事を為す。



「汝の為すべき事を為せ」…とは、エンデの「果てしない物語」の一節だったでしょうか。



ファンタジーだというKanonには、現実という言葉を持ち出すのは不必要な事なのかもし

れませんね。



#私はPSY・Sはシグナルに入ってる「GIMMICK」が凄い好きですね。

#〜何がアートで誰がレジスタントか システムも知らない



No.11884 by とす [p8ba740.ksgi.ap.so-net.ne.jp] at 1999/8/30(月) 01:33 削除


Kanonで語られる現実受容って何を意味するんでしょうね。

もののけ姫みたいな「生きろ」という強烈なメッセージもないし、「エヴァ」みた

いに物語を否定して現実に帰れというわけでもない。ONEでテーマにされる

の主人公自身の「現実感」でもない。

(ONEは現実に帰る絆を結ぶ物語であると同時に、絆を結ぶことによって

主人公自身の立つ場所を再認識していく物語であるような気がする。絆を結

ぶことにより、彼は自分が盟約を結んだ時より、永遠の世界の住人であった

ことを自覚し、消え、そして戻ってくるのだろう。そういう意味において、

ONEの受け入れ、克服すべき現実は、主人公自身の「現実感」であると思う)

 Kanonの受け入れ、克服すべき現実は、避けられない悲劇という物語

を媒介にした、主人公の手の届かない外側にある「現実」であると思う。しかし、

その現実を前にして、Kanonは何も語らず、ただ受け入れることを要求

する。その辺りが、メッセージ性のないといわるゆえんであり、強烈な印象

を残すゆえんなのでしょうか。主人公は、何かを為すためでなく、今を生き

るために現実を克服しようとするし、またそうしなければ、そこにいること

ができない。主人公は、現実を受け入れ克服するのでなく、これから生きて

いくためには、そうすることしかできない現実の中に生きているように感じ

る。そして、そうした現実受容のあり方が、ひどく今日的だと思う。



>感想ですね^^);でも、確かにKanonの語る現実は、物語を離れてみた

ほういいのかもしれませんね。そういうところで、ネタバレで語られる現実論は、

結構おもしろいですね。



No.11917 by White [canna12.jks.is.tsukuba.ac.jp] at 1999/8/30(月) 11:05 削除


例えば夏と秋の定義なんて、個人の心の中にしかない。

個人が夏と思えば夏だし、秋と思えばそれは秋。

#ところで近頃秋ですねぇ。こないだトンボ飛んでました。



同様、現実と幻の境なんて本人の心の中にしかないものだと思います。

幻の中でしか生きられない存在にとっては、幻はまさしく現実なのではないでしょうか。その存在は、幻が崩壊してしまえばもう生きられないのですから。



もし逃避することで生きていけるんなら、それは立派な生き方でしょう。半端に受容して、なにもできないでいるよりはよほどいい。

ただ、辛いかどうか試さずに逃げるのはよくない。それは手段としての逃げではなく、逃げることが目的になってしまっているから。



Kanonという物語から無理にメッセージを見つけるなら、そういうあたりじゃないかと思います。

「選ばずに逃げるのはよせ」

「どんなに辛くても現実だけは見据えて、その上で選べ」

ってあたり。

#そのくせ、

#「辛くても見つめ続けたらいいことがあるよ」

#なんて半端なことをしてるのは気に入らないカモ。



ところでエンデの作品の邦訳タイトルは「はてしない物語」であって、「果てしない物語」ではありませんです、はい。



No.11981 by SilentBells [ppp11.cats.ne.jp] at 1999/8/31(火) 00:36 削除


秋は私の大好きな季節です。秋の風の匂いが好き…。



で、今回は「共同幻想」の話になるのかと思いきや、色々とこわい

落とし穴があるのでやめて(笑)、無難なところでまとめてみました。



■現実は修正可能



事実(Fact)―→|解釈(思い込み)|―→現実(Real)



『不幸な現実をつくりだしているのは、事実ではなくて、

 事実を解釈している仕方である。』



『事実は変えられないが、解釈を修正することによって、

 現実を劇的に変えることが可能である。』



この線で考察すれば、

最終的にはハッピーエンドに到達する仕組みが見えてくるはずです。



No.12005 by 雪駄 [sapcc-03p45.ppp.odn.ad.jp] at 1999/8/31(火) 04:31 削除


Whiteさん>

>ところでエンデの作品の邦訳タイトルは「はてしない物語」であって、「果てしない物語」ではありませんです、はい。



すいません。そういえば引用個所も「汝の欲するところを為せ」だった気もしてくる…

ろくに読んでいない人間が曖昧な記憶で引き合いに出すのはエンデにもそのファンにも失礼でした。

あそこの引き合いは忘れて下さい。

#「幼年期の終り」を「終わり」と表記してSF研先輩に怒られる新人の気分<それはチガウ(^^;;





SilentBellsさん>

>この線で考察すれば、

>最終的にはハッピーエンドに到達する仕組みが見えてくるはずです



とすさんがエヴァを引き合いに出したこともあるし、これ、エヴァの最終話からの引用で

言い換えてみましょう。



「現実を悪く、イヤだととらえているのは、君の心だ」

「現実を真実に置き換えているあなたの心よ」

「現実を見る角度、置き換える場所、少し違うだけで、心の中は大きく違う」

「真実は人の頭の数だけ存在する」

「だが、君の真実は一つだ。狭量な世界観で作られ、自分を守る為に変更された情報。ゆ

がめられた真実さ」

「ひと一人が持ち得る世界観なんて、ちっぽけなもんさ」

「だが、人はその自分の小さなモノサシでしか、物事をはかれない」

「与えられた他人の真実でしか、物事を見ようとしない」

「晴れの日は気分良く」

「雨の日は憂鬱」

「そう教えられていたら、そう思い込んでしまう」

「雨の日だって、楽しい事があるのに」

「受け取り方で、別モノになってしまう脆弱な物だ。人の中の真実はね」

「人間の真実なんて、その程度のもんさ。だからこそ、より深い真実を知りたくもなるがね」



そしてこの後、辛いと思っていた現実をハッピーだと思おうとしたシンジ君はTV版で酷

い真実をチャラにして「しあわせ」になりましたが、非難が殺到しました。



「そんなんで今までの問題がチャラになるわけないだろう!」



そのせいなのかどうなのか、映画では現実をハッピーだと認識したシンジ君の前に、思い

込みだけではどうしようもなりようがない、絶対的にアレな真実がそこに待ち受けていた

のでした。



あははー(汗)。

コメントは控えさせていただきます。



ところでWhiteさん、コメントアウトにレスで申し訳ないですが、



>#「辛くても見つめ続けたらいいことがあるよ」

>#なんて半端なことをしてるのは気に入らないカモ。



それをやっていないのも真琴シナリオが評価高い理由でしょうね。

Kanonの場合「辛い事を受け入れた」のに、ラストその受け入れた「辛い事」がチャラに

なってしまうというのは先に書いた通りですが、ラストがハッピーエンドでも辛い事がチ

ャラになっていなければ良かったのにな、と思います。



「奇蹟」が「辛い事の回避」と無関係であれば良かったな、と。



#例えば、名雪シナリオでは秋子さんが死亡するけど父親が帰ってくるとか、そうでなく

#ても、二人きりで苦労しても幸せに生きる祐一と名雪の姿とか、栞シナリオでは栞が死

#んでしまうけれど祐一は香里とラブラブになって幸せ、とか(願望)…

#辛い事があってもそれを受け入れ、それでも最後には幸せそうに笑う登場人物たちの姿

#を描いたMOON.と対比し、残念に思う方の気持ちは非常に良く分かるかもです。



或いは辛い事をチャラにしても良いけれど、「奇蹟」を起こすのが祐一の心ではなく現実

的な努力であればな、と。



#それこそ、あゆシナリオでは真実を受け入れた祐一が、努力して十年後にでも医者にな

#ってあゆを救ったかもしれないというエンディングにするとか(苦笑)




No.12016 by SilentBells [ppp6.cats.ne.jp] at 1999/8/31(火) 06:10 削除


雪駄さん

チェック厳しいSFファンもいますね。

『本当はアジモフなんだよね。』なんて、そういうこと言う人、

嫌いです。



エヴァ用語の翻訳

“現実”→「事実」

“真実”→「現実」

“狭量な世界観”“モノサシ”→「解釈・思い込み」



これで私の言いたいことと同じと分かってもらえると思います。

ところで、庵野用語の場合、『時は流れ、季節は移りゆく』は

どこに分類されるんでしょうか。



No.12045 by White [canna12.jks.is.tsukuba.ac.jp] at 1999/8/31(火) 12:58 削除


でもまだ麦茶がおいしいです。ああ、そういや今年は西瓜食べてない(;_;)



はてしない物語」の件の文章は、私も憶えてないです(--;

むむむ、ガツンと買うか、こうなったら。



○コメントにレスのおかえし

>#それこそ、あゆシナリオでは……

っていうかす○うたネタ。むしろ禁句(笑)

#いや、対比したいってんなら止めませんが(^^)



エヴァのこと

>「そんなんで今までの問題がチャラになるわけないだろう!」

お話としてはTVで十分ハッピーエンドなんですけどね。

しょうがないので同じ話にアブないおクスリを仕込んだのが劇場版なのカモ。

ところで「時は流れ、季節は移りゆく」は、(エヴァでなら)「幸せになれるわ。だって、生きているんですもの」が近いかと思います。ちょっと違いますけどね。



○奇蹟のタイミング

>「奇蹟」が「辛い事の回避」と無関係であれば良かったな、と。

というか、奇蹟が起きるのが「辛いことの回避」の後「もう一度立ち上がって」からならOKだと思うんですよ。それなら「耐え抜いた」って成果が残る。

でも、奇蹟の力で立ち上がったらそれは回避してないじゃん、と思うわけです。



○チェック厳しい

ファンというのはチェック厳しいもんです(笑)

歪んでるかもしれないけど、おおむね愛にあふれてますから。

大人げない人は私も嫌いですけどね:-P



No.12110 by 雪駄 [sapcc-02p68.ppp.odn.ad.jp] at 1999/9/1(水) 04:10 削除


>○奇蹟のタイミング

>>「奇蹟」が「辛い事の回避」と無関係であれば良かったな、と。

>というか、奇蹟が起きるのが「辛いことの回避」の後「もう一度立ち上がって」からならOKだ>と思うんですよ。それなら「耐え抜いた」って成果が残る。



でもまぁ、私はKanonの奇蹟は「希望」だと思うんで、それをやったら別の物語になっち

ゃうかな、と。

耐える事に結果を出さないように、出さないようにとしている物語だと思うんですよ。

主人公が「立ち上がらない」のは計算のうちで。



現実受容云々の側面からKanonを見るなら、それは「現実を受け入れる」までは書いてい

るけれど、受け入れた後変える、乗り越えるまでは意識的に示していない物語だと思います。

現実は受け入れても受け入れなくても変わりはしない。

受け入れなかったら、現実の良いところは見えないけれど、嫌な部分も見なくて済む。

受け入れたら、現実の嫌な部分も見えてくるけど、良い部分も見えてくる。



だから「痛みを受け入れて、立って、現実を良い方向に持っていく」まではやってないと

思うんですね。これはもう、意識的に。

むしろ「痛みを受け入れたからといって、どうしようもならない現実はある」という事を

示そうとした節はあるし。



祐一を立たせて、努力させて、それで奇蹟が起こった、という話を作るのは決して難しい

ことではなかったと思います。むしろそういう話は簡単に作れる。

願望としての癒しの物語として。



でも、それは嘘なんですよ。



辛さに耐えて、努力したら奇蹟が起こるなんていうのは全くの嘘で、努力しても報われな

い人はいっぱいいる。

多分、ライターにはそれが頭にあったんだと思います。

だから、当初は祐一を立たせて、それでも「駄目だった」っていうストーリーを考えてい

たんじゃないかと思います。

勿論、絶えて立った結果、それが報われるハッピーエンドも織り交ぜて。

でも、それをやっちゃうと、お話の中なのに、あんまりだっていう考えもあった。



嘘を描かないようにするにはどうするか。



それは現在のKanon、「結果を出さない物語」だったと思うんです。

現実を受け入れるまではやる。

でもそれに「耐える」「立つ」、「その結果」までは描かないという。



目の前にある物を受け入れたときに見えてくるのは「痛み」であり、「希望」なんです。



見えてきた「痛み」に祐一は耐えていません。ただ、受け入れているだけです。

何をするでもない。ただ、それを受け入れ、見ている。

そしてその後、目を背けなかった祐一は次に「希望」を見る。



Kanonにおける「奇蹟」は希望であって、何かの結果ではないんですよ。



だから、分かりやすくする為には「希望」は「痛み」と無関係であった方がいいんじゃな

いかといったわけです。



傷つかない為には何も見ない事だ。でも、傷つくかもしれないけれど、目を開けていれば

希望が見える事だってある。

Kanonはそういう作品だと思うんですよね。



あのハッピーエンドは「夢」である、という意見は凄く正しいと思うんです。

あれは、製作者やプレイヤーの願望、夢なんですよ。





で、某す○とKanonの対比ですが、某ボクシング漫画の台詞を引き合いに語っちゃいましょう。



「努力した物が報われるとは限らん。だが、成功した者は、皆すべからく努力している」



エヴァKanonていうのは、努力した人間が必ず成功するっていう、物語的な嘘を排除しよ

うとしたんだと思います。

でも、それを表現するには「努力しない人間が成功する」「努力した人間が敗北する」と

いう、嫌な話を書くしかない。それをやったのがエヴァですね。

Kanonは、そういう嫌な話にしないために、何もしない祐一に「痛み」「希望」の双方を与

える物語としたんだと思うんですよ。そして何かを始められるスタートラインに立たせる。

痛みと希望の双方を見た祐一。

祐一の現実へのアプローチは、Kanonエンディングから始まるのでしょう。

それまでの祐一は、現実を見ていただけだったのですから。

だから、メッセージ性は無い。自分で考え、自分で決めろという物語だと思うんです。



Kanonは、上の台詞の前、これからボクシングを始めようという人間に言う台詞のような

作品です。



「今見てきたとおり、ボクシングは苦しいし、痛い。だが、見てきたとおり、成功すれば

栄光が待っている。…やってみるかね?」



そしてす○は、伸び悩んでいるボクサーに言う次のような台詞みたいな作品。



「努力した物が報われるとは限らん。だが、成功した者は、皆すべからく努力している」

「だから努力しろ」



うーむ、上手い喩えじゃ無いなぁ…それではまた。



No.12128 by SilentBells [ppp17.cats.ne.jp] at 1999/9/1(水) 16:35 削除


この前、映画「ネバーエンディングストーリー」の最後の辺だけ

TVで見ました。映画版はどうもKanonに何らかの影響を

及ぼしていることは間違いないですね。

奇跡のかけらって、ファンタージェンの滅びた末の一粒?



エヴァ論がKanon評価に影響している以上、少しは脱線も許されるか?

雪駄さんが引用してくれたのでエヴァの用語に合わせて説明する

ことができると思うけど、私は、

『時は流れ、季節は移りゆく』に相当するものを「真実」として

受け止めたいので、「真実」という言葉を他にあててしまうのは

好きではないのですが…。



エヴァ庵野監督が言いたかったこと。多分、私達の世界を見る

仕方というのは、

『自分の「狭量な世界観」というフィルターを通して、

 世界の「現実」を自分の「真実」に映している。』

ようなものだ、と言っているのではないでしょうか。



そこから発展して、

『自分の真実を不幸にしかしないような、人の借り物でしかない

 世界観は捨てて、自分のための世界観を確立して、自分だけの

 真実を見つけ出そう。誰もが自分の真実を生きる資格がある。』

ということなのかも知れませんね。



そしてそこに問題提起が生じる余地があります。

『では、異なる世界観を有するAさんの真実と、Bさんの真実は

 全く別のもので、コミュニケーション不可能なのか? 両者を

 繋ぐ絆となるものは何かないのだろうか?』



つまり、独我論ではないか?との批判。唯心論の行きつく果てに

他者の真実と共有できるものとは何か?



>>「幸せになれるわ。だって、生きているんですもの」



で、きっとこれ↑がそれです。これこそ共有可能な何かでしょ?

現実?、真実?、狭量な世界観?、それとも別のもの?

まだ現実になっていない事柄、「願い」と呼びたいところですが

エヴァ用語で何と言っているのかはわかりません。



現実でもなく真実でもない事柄が、異なる世界観を有する2人の

真実の中で「共存可能」であるということ、それって、唯心論を

突き詰めていった先の結論としては、かなり信じられないことの

ように思えませんか?



というわけで、「願い」をキーワードにしてるっていうことは、

Kanonはかなり進んでいると思う(いきなり結論ですが)。

エヴァで解き明かされなかった「願い」の本質が明らかになって

いるかも知れません。ということはエヴァより上を行っていると

いうことかも?(謎。



他作品という点で言うと、私は、、

エヴァ」<「ONE,Kanon」<「十二都市十二少女物語(センチJ)」

だと思っています(え?)

#若菜の回、えみるの回の意味するところを理解できた人は

 どれだけいるのだろう(自分もいまいち理解したとは言えないし…



別離・約束・再会ネタとしては、

ファンタシースタードラマCD」が今のところ私的にはベストの

展開を見せてくれた!と思っています(マイナーすぎる…。



No.12168 by 雪駄 [sapcc-02p49.ppp.odn.ad.jp] at 1999/9/2(木) 07:28 削除


>別離・約束・再会ネタとしては、

>「ファンタシースタードラマCD」が今のところ私的にはベストの

>展開を見せてくれた!と思っています(マイナーすぎる…。



うわぁ、懐かし…

もう内容殆ど憶えてないですが(^^;;

ネイとファルとを繋ぐお話でしたっけ?



PSはキャラクターが皆いい味だしてましたよね。

個人的にはフォーレンが好き。



今、不意にあゆ(羽あゆ)とあゆ・ファースト(本物)の対決する姿が頭に浮かんできた(笑)

するとユーシス=祐一…か




No.12186 by White [azalea2.jks.is.tsukuba.ac.jp] at 1999/9/2(木) 18:12 削除


脱線が議論のための道具なら、いずれ元に戻ってくるなら許されるんじゃないかなーと思うですよ。



○奇蹟の意味は

確かに、「奇蹟=希望」であるとするなら、立ち上がらなくてもOKですね。

ただ、Kanonでの奇蹟の見せ方は「希望」であるには露出しすぎかなぁ、と思います。

あれでは「辛いこと」よりも「奇蹟」がクローズアップされてしまう。



エヴァKanonていうのは、努力した人間が必ず成功するっていう、

>物語的な嘘を排除しようとしたんだと思います。



「嘘の排除」というのは少し違うと思います。

物語にするときの、「ほんとうの排除」の仕方の問題なのではないかと。

努力した人が成功するのも真実だし、努力しないのに成功する人がいるのも真実。

じゃあどっちかを見せたいときにどうするかって、反対側を隠すのが基本。

で、Kanonエヴァでは「努力しようが努力しまいがどうしようもない不幸なことがある」ことを見せるとこから始まっているように思います。





○唯心論の果てで幸せを叫ぶために



SilentBellsさんおっしゃるところの「願い」は、俗に「希望」と呼ばれるものなんじゃないかなと思うのですけど。



エヴァKanonとどっちが上、という点については、どっちもどっちだと思ってます。

ただ、「商業的成功という世界観」だと前者が圧勝、ですけどね。

#これも結局はフィルタの問題(--;



ところで、異なる世界観を有する2人であったとしても、共有することで幸福になれるのなら、心の中の真実なんて変わると思います。だって幸福になれるんですから。

#もちろん相性ってもんはあるでしょうが(^^;





と、ここまで考えて思い付いたこと。

Kanonのお話は、祐一が『なにがなんでも幸せになる』ためのお話なのかな?」

そう考えると、話としてはわりと納得いくかも。

演出に難があると感じるのは、あんま変わりませんが(^^;



ちなみにPSはやったことないです。むむん、人生の損失なのかな?



No.12193 by SilentBells [ppp29.cats.ne.jp] at 1999/9/2(木) 21:15 削除


○Whiteさん

■I wish you a happy life.

「希望(hope)」より「願い(Wish)」の方が、遠い先のことを

見つめるような時に使えるのかな、と思います。



私にとっての作品の評価というのは、その作品からどれだけ

得るものがあったかということを重視します。Kanonは

テーマ的には堅実な方を選んだと思うけれど、その分だけ、

1つ1つのキーワードを絡めた、使えるメッセージを伝えて

くれたと思います。



PSは、特にPS2はなかなか辛い感じの、ストーリー的に

よく練ってある作品でした。何せ、EDテーマが鎮魂曲…。



No.12873 by 雪駄 [sapcc-01p56.ppp.odn.ad.jp] at 1999/9/16(木) 01:55 削除


雑文書いてたら、Kanonエヴァ、ONEがどういう話だったのかという私的見解を表す言葉

が出てきたので、一応、ここから繋げときます。↓



http://www2.odn.ne.jp/~aab17620/d9909-3.HTM#9.14



あんま纏まってはいないですけれど。

むむむ。



>ちなみにPSはやったことないです。むむん、人生の損失なのかな?



損失まではいかないと思うです。面白いシリーズですけれど、PSにしかないっていうモ

ノが無いですから。ただ、シリーズ物ならではのゲーム内の時間、時代の移り変わりが

このシリーズの場合は千年周期っていうのが変わってると思いますけれど。

もし、サターンの「コレクション」なんかでプレイされるなら、1と3は取り敢えず設定

だけ覚えておいて、プレイするのは2と4っていうのがいいでしょうか。

コアなファンには1と3が好きな人多いんですけど、少々とっつきにくいし…



…今の私にはサターンより前のセガのコンシュマーって「体験」であって、今、作品とし

て人に勧められるかどうかっていうと、凄い微妙なところってあります。複雑。





>私にとっての作品の評価というのは、その作品からどれだけ

>得るものがあったかということを重視します。Kanonは

>テーマ的には堅実な方を選んだと思うけれど、その分だけ、

>1つ1つのキーワードを絡めた、使えるメッセージを伝えて

>くれたと思います。



宙出版から出ている「幻獣の国物語」(1〜16)作・TEAM猫十字社っていう漫画はご存知

でしょうか。

漫画版「十二国記」なんて称されることもある秀逸な群像ファンタジー漫画なんですが、

何気に使えるキーワード、メッセージというものの宝庫でもあるんで、SilentBells さん

に結構おススメかもです。

雑誌の廃刊で未完なのが非常に難なんですけれど(ああ、ボマレアと可陀の戦を、世界大

戦の続きを見たいぃ)。

オフィシャルサイトは下記に。



http://www.clio.ne.jp/~teamneco/index.htm





>PSは、特にPS2はなかなか辛い感じの、ストーリー的に

>よく練ってある作品でした。何せ、EDテーマが鎮魂曲…。



私は、エンディング突入前の各キャラクターの姿が目に焼き付いています。



「愛する物を奪われる哀しみを、お前達にも味あわせてやる」

「貴方達の顔に戸惑いと憐れみの表情が見える。私は貴方達を絶対に許さない!」

 …etc…



生の感情剥き出しのあの台詞群が、何よりも心に刺さって。

ラストでなにも言わないで剣を取る主人公の表情が痛くて。



FF7のストーリーって、ある意味PS2のなりそこないよね。