選ばれなかった存在。カウンター「KANON」としての「AIR」

 「AIR」という作品の前提には「KANON」の選択肢のクリティカルさというものがあるのだろうとも思う。


>"KANON"はさあ、いや、単にフッたフラれたならいいんだけど、選んだシナリオ以外のキャラって、もう消えちゃうわ死んじゃうわで、ゲーム中の分岐点で、"ああ、ここでこう選ぶとこの娘は消えちゃうんだよなあ"というのがものすごいストレスだった
貴島煉瓦「WONDERTHEREE」あとがきより抜粋



 一回のプレイで一つのお話を読み終えただけで終わっておくならば知ることもない、けれど再読時に別の他の選択をしたときに気づく、その選択によって消えてしまう別のシナリオ、展開するはずだった別の未来。
 選ばなかったことで作中では気づかれず、「なかったこと」になってしまう物語たち。
 逆に選ばれたことによって顕現する過去、さらに現在未来での他シナリオでは起こらない事件事象事故、そこにしか存在しないハッピーエンド。
 祐一というPCが、あるいは彼を通してプレイヤーが「選ぶ」結果によって作中の人間の運命が決定付けられるということの意味、傲慢さ。「選ばれるもの」「選ばれなかったもの」の違い、それぞれの幸不幸。
 IFともANOTHER STORYとも違う、並列に存在しながら、プレイヤーのマウスクリック一つで一つ以外は全て「なかったことになる」、しかしプレイしていくプレイヤーは気づいてしまう知ってしまう経験してしまう存在物語たち。
 それは選択肢によるシナリオ分岐構造を持ったゲーム形式であるが故に存在するストレスであり、面白さである。
 この選択による分岐構造に対して、量子学的な観測を絡めてみたり、並行世界などといったガジェットを用いるという作品もあるが、久弥氏がこのとき出した答えは「一つの願いだけが適う」というおとぎ話、「KANON」という作品だった。
 「KANON」の企画者でありメインライターである久弥氏や絶賛したプレイヤーたちの中では恐らく完結し納得しているのだろうこの分岐による問題は、しかし一部のプレイヤーにとってはものすごくひっかかるものであった。多分、久弥氏とともにKANONのシナリオを書いた麻枝氏にとっても。
 麻枝准KANONで担当し送り込んだ2本のシナリオは久弥氏のスタイルへの過剰な反応とも思えるような内容であったし、続き自分で企画した「AIR」にもまたKANONへのカウンターという色が混じってはいなかっただろうか。
 KANONとスタイル自体は変わらない、選択肢式分岐ADV。
 ゆえにKANON同様、選択によって別々の物語が紡がれる。
 KANONの5人よりは少ないが同じように観鈴美凪、佳乃、大きく分けて3人から誰か一人のシナリオを選んだことによってその誰かのシナリオが展開成就していくし、その一方で、選ばれなかったキャラクターたちが物語からフェードアウトしていくのも、その後、別のキャラクターを選択することによって閉じられていた物語が開きまた他方で別の物語を閉じることになるのも変わらない。
 しかし「AIR」においては選ばれなかった物語も「なかったこと」にはならない。設定されている語られないエピソード群、願いを叶えられなかったたくさんの観鈴たちの1000の夏、その一つとして物語的に回収されるのである。
 佳乃や美凪のシナリオを終えたとき、それらの物語は空の少女(=観鈴)を追うことをやめる物語、或いは追い続ける物語であることは明示されるし、最初から観鈴を選んだとしてもそのシナリオは結局それだけでは完結を見ることが出来ず、残りの二つのエピソードをこなさなくてはならない(さらに固定シナリオSUMMERを見なくてはならない)というシステムロックがかかっている。
 どう転んでもプレイヤーは空の少女を「選ばない選択」をしなくてはならず、選(ば)べない結果として「海にたどり着けなかった少女」の1000分の幾つかを背負うことを義務付けられるのだ。システムロックを解いた時に現れる、観鈴が「海にたどり着く」ゴールは唯一無二であるため、これに辿り着くための1000の夏もまたその時点で既に起こってしまったことになってしまう。佳乃シナリオ、美凪シナリオという、「観鈴を救え(わ)なかった往人の物語」は決して「なかったこと」にはならないのだ。
 KANONにおいては明言されることがなかったゆえに「なかったこと」とされた部分。プレイヤーの個人差による後ろめたさやストレスがあっても、同時にプレイヤーの想像如何によっては選ばれなくても幸せになれたのではないかという考えも通用する曖昧な部分(それこそがKANONの良さの一つであるとも思うのだが)。明確に背負わされることはなかったその部分をこそAIRは逆に突っ込んでいると言えよう。
 一か全か。
 夢を見ている少女の願いが一つだけ叶う「KANON」に対し、全ての可能性、バッドエンドもハッピーエンドも1000の過去として飲み込む「AIR」。
 この対比は選択し物語を決定付ける観測者としてのPL/PCの扱いにも関連してくる。
 KANONでは選択が=そのヒロインの救済であり(もっとも麻枝シナリオの真琴など、一概にそうとも言い切れないが)、それによって自分もその娘との過去を手に入れ(※)ハッピーエンドを迎える。このようにKANONの祐一は物語のある種絶対者的な扱いであるのに対して、AIRにおける往人はその選択が必ずしも救済には結びつかないし、それどころかAIR編突入時においては「覚悟できてる?」と逆にヒロイン観鈴から選択を突きつけられ、最終的には選択の余地すらない烏の「そら」と化した状況でただ観鈴の運命を見届けるはめに陥る。
 背負わない観測者でありながら絶対者でもあったKANONのPLと、最終的に背負いながら傍観者としかいられないAIRというのは見事なまでに好対照であると言えよう。
 また、AIRの往人は選択者であると同時に被選択者として描かれている点も注目である。
 力と約束を受け継ぐものという既に外部の何かに選ばれた存在。
 それは観鈴が運命に選ばれていたのと同様であり、その上で観鈴は夏の連れ合いに往人を選ぼうとし、ゲームシステム的に往人も観鈴を選ばなくてはならないというように、シナリオ的にヒロインである観鈴と対等に描かれているのである。
 物語の絶対的な選択を行うPC/PLと救済を待つ被選択者としてのヒロインというKANONの構図を考えるとこれもまたカウンターパンチだ。
 しかも最終的にヒロイン観鈴がゴールを目指して選択するのはPL/PCではなくNPCである晴子なのだ。被選択者、PLに選ばれなかった選択者というKANONのヒロインたちの立場までAIRはPLに体験させるのである。
 このように、KANONAIRは対照的な部分を幾つか持つ。そしてその対象の軸となるのは「選択」に対する部分だ。
 選ぶということ、選ばれるということ、選ばれないということ、選べない、選ばないということ。
 ゲームという形式であればこそ必ず出てくる部分であり、そこへの対応こそが作家の個性が出る部分である。
 システム的にもシナリオ的にも、この選択というものへのスタイル、拘りを追ってみるのも面白いのではないだろうか。
 立体的に物語を語るということ、それに対する反逆として幻想性をまとったKANON、とか。
 AIRの「1000の夏の中で願いを叶えられなかったたくさんの観鈴たち」なんてイメージの切実さ、とか。
 麻枝准の作品がゲームとして興味深いのは、彼の中の選択というものへの考え方や想いが込められたシナリオと、ゲームという選択を内包するシステムのマッチ具合からなのではないかと最近思う。


(※)KANONは「ヒロイン選択の結果、別々の過去を手に入れる(過去が作られる)」という様式を顕著にし、泣きゲー云々の他、こういった部分でも後の作品に影響を与えている。しかしその中で「みずいろ」はそこを逆手にとっていて、まず過去を作ってから本編に進むという、whiteの一部シナリオの麻枝っぷりに続いて第一級の消化ぶりを見せ付けている。SenseOffやAIRとはまた別の形でのKANONへの返しと言えよう。