至る病

5月病というやつだろうか。死にたくて堪らない。
実家に帰って弟とエヴァDVDを観たかったのだが身体がいうことをきかないというか一歩も家から出られなかった。
ネットで好きな漫画を批判しまくっているサイトを見てDownDownDown。遡と本当に好きだったんだとわかる。
好きだからこそ可愛さあまってなのか。なんにせよ、好きなものを好きと言えなくなってしまうのは悲しい。
というか俺は今でもその漫画が好きで、この潤いのない人生の数少なくなってしまった楽しみの一つなので否定されるのが堪える。
否定する理由が筋道立ってて納得できるものだからこそ辛くて堪らない。ああ、ああ。俺はこの漫画を好きだという感情をこんなことで奪われるのか?


最早何もやる気が起きず、ニコニコ動画でダラダラと動画を見る。
………。
メガCDのLUNAR ETARNAL BLUEはやはり最高だ。この世に中村一義の歌と100sがあってよかった。


ニコニコ動画が共有するのは動画よりも「感情」--
http://japan.cnet.com/news/media/story/0,2000056023,20369417,00.htm


さてスターフルーツを食べたケロロ軍曹のごとく、ニコニコ動画で5月病が癒された雪駄さんは考えた。
感情の共有とはなんぞや、と。


■人は感情を共有したいんだと思う。思想でも価値観でも法律でも道徳でもな
く、喜怒哀楽を。ネガティヴな感情も、ひっくるめて、全部。(後略)
'98年9月20日 遠藤 浩輝



楽しいときに一緒に楽しんでくれるひと。悲しいときに一緒に泣いてくれる相手。
ちいさな子供「同士」なんかはプリミティブにそれを互いに求めているように見えて、片方が泣けば泣き出すし、笑えば笑い出す。テレビ番組の「はじめてのおつかい」なんかを見ていてもそうで、一方が他方と喧嘩になるのは、行動や思惑の相違からというよりも、感情の共有に失敗したからなんじゃないだろうか。相手を強制的に自分の感情に合わせようという行動。目には目を。怒りには怒りを。おいしい物を一緒に食べて、おいしいという幸せな感情を共有できれば仲直り。


集団、国家というものにおいても、それがまとまるのは感情が共有化される状態を作れるからなんじゃないだろうか。
民族の違いとか主義主張とかお互いの利益とか、喜怒哀楽のどれかが共有できるなら、その感情のときにはきっとまとまれるんじゃないだろうか。


けれどえいえんに感情が共有されることはない。
味覚は変わるし、感じ方も経験によってひとそれぞれに変わる。
夜の静けさは安らぎか、恐怖か。


同じものを見て同じように感じて、同じようにお互いを好きだと思っていた相手が、自分とは違う感情を持っていた別個のものだと気づいた瞬間の孤独、恐怖?


ああそうか。大前提として最初は世界に自分ひとりだ。自分が世界のすべてであり、自分の感情が世界を形作る。
自分が好きなものは誰にとっても好きなもので、自分が嫌いなものは誰にとってもそうだと思う。
けれど実はそうではない。
自分は一人だ。世界は自分ではない。世界を削るか、自分を削るか。


そんな一人の世界に、自分の感情を共有してくれる相手が現れる。
トモダチとか、コイビトとか。
大きかった世界は切り分けられちっぽけな自分だけの世界となったが、切り分けられた個人同士でも、感情を共有することで世界が広がる、錯覚。


長森瑞佳は折原浩平には共有できない未知の感情をもって、浩平の世界を壊す。
自分を裏切った世界の中で、認めなかった世界の中で、ただひとり想いを共有してくれようとしたみずかと作った世界。
そこにあってはならない、自分が共有できないみずかの感情。みずかが共有できない自分の感情。
それを認められるか、どうか。


Mixiのコミュ。
共通の趣味で語り合いたいのも、感情を共有したいから?


リリィ・シュシュのすべて。
殺意の理由は感情を共有していたことを知ってしまったから?


感情の共有。
人は分かり合える(と錯覚できる)一瞬が確かにある。
でも一瞬は永遠ではない。


ああ、今の俺が辛い理由は相方が居なくなって、一瞬たりとも辛いという感情を判ってくれる相手がいないことなの?
上司と部下しかいない、仲間がいない職場は辛いよ。