あの時あたしが欲しかったものは、あなたを形造るものとかよわい笑い声と犬みたいな目(ほむらの話)
今回の『叛逆の物語』でほむらは、まどかを「なにがなんでも止めるべきだったんだ!」と叫んでいますが、これはかつての「行かないで」と相似です。
ほむらが何がなんでも止めるべきだったって後悔してるのは、概念化もそうだろうけどそもそもが1周目の最初のワルプルギスへの特攻で、結局本当に取り戻したいのは1周目のまどかで根本の願望は「行かないで」と「私なんか助けるよりも、あなたに生きててほしかった」で、そこに回帰したんだと思った。
Twitterでも呟きましたが、ほむらが「やっぱり何がなんでも止めるべきだったんだ」と後悔するのは、あのシーンではまどかの概念化のことですが、そもそもほむらの願いの根本ていうのは、ワルプルギスの夜に1人で特攻するまどかに「行かないで」欲しい、何がなんでもまどかを止めたい、まどかに生きていて欲しいというものなのですよね。
だからほむらのあの叫びというのは、原点回帰とも言える。
加えてあの花畑でほむらと話したまどかというのは本編での記憶を全て喪っていて、円環化を選んだあの我々の知っているまどかではありませんが、魔法少女であり転校してきたほむらを出迎えたまどかという1〜2周目のまどかに限りなく近い、つまり、ほむらが一番最初に出会って死に別れ、魂を代価に契約し、取り戻して、もう一度出会いたかったまどかに最も近い存在のまどか本人なのです。
花畑のシーンというのは、ループの果てに互いに違う時間を進みかけ離れてしまったまどかとの、ほむらにとっての最初のまどかとの本当に長い長い時間を経てのようやくの再会だったのではないでしょうか。
予告などで言われていた「懐かしい笑顔」というのは、円環化しほむらが心の中で神格化すらしかけていた(円環の女神像のシーンなんかにそれが現れていますね)まど神様の笑顔のことではなく、「ごめんね」って勇気を発揮してほむらを置いていく笑顔でもなく、神様や英雄になる前の、ほむら本人でさえ忘れかけていた、一周目の人間まどかの笑顔のことだったのではないかと思うと心が震えます。
このとき、ほむらは最初の自分の願いを思い出したような気がします。本当に欲しかったものは女神になるまどかなどではなく、目の前にいて抱きしめられる鹿目まどか個人だったということ、本当に願っていたのは、恐怖を乗り越えて勇気を出して自分の目の前からたった一人で行ってしまうまどかを引き留めて、一緒にいることだったのだと。
あの時あたしが欲しかったものは、(ほむらの話)
【ネタバレ注意】まどかマギカ叛逆の物語 ほむらちゃんのメガネの話http://togetter.com/li/584664
ほむらが眼鏡の自分、メガほむを嫌っていたのかというと、どうなんでしょうね。
僕はメガほむって、上のエントリで書いたように、叶わなかった想い、見果てぬ夢の象徴みたいなものだと感じていて、眼鏡をかなぐり捨てるっていうのは、目的の為にそれを諦める「もう誰にも頼らない」覚悟の表れだと思っているんで。だってメガほむのときは杏子に頼るけど、クーほむになったらそれをやめてしまうんだよ、ああ。
でも、ほむらが自分を許せないというのはその通りでしょうね…。
自分の弱さがまどかに自分を守らせ結果的に殺してしまった(1周目)
自分の願いがまどかを魔女にしてしまった(2周目)
自分を殺してとまでまどかに言わせ、この手で殺してしまった(3周目)
ループを繰り返し、因果を巻き付け、まどかを最悪の魔女となるよう仕向けてしまった。
最後には円環化という自己犠牲(一種の自殺)までさせてしまった。
そして今、インキュベーターに付け入る隙を与えてしまった。
まどかを傷つけ、殺し、殺させ、今また危機に陥れているのが自分自身だという事実はどれ程にほむらを蝕み、自責の念を与えることでしょう。
ほむらの魔女、ホムリリイが断頭台に向かうのは自らを裁く為なのでしょう。顔の上半分がないのは、眼鏡をかける部分であるという面白い指摘が言及したまとめにありましたが、そのホムリリイの歩みに逆らって痛々しいまでに地面を引っ掻くのは、眼鏡と並んでメガほむを構成していた三つ編みを結んでいた紫のリボンです。私には、眼鏡を捨て様々なものを諦め、1人になろうとするクーほむをメガほむが必死に押し留めようとしているようにも見えました。
でもホムリリイの足は止まらない。深い深い自責をそこに感じます。
自責し自分を殺そうとするほむら(ホムリリイ)に、仲間たちが1人で抱え込むなと叱りつけ、止めようとし、まどかがそんなことしないでいいんだよと救済の手を差し伸べる。でもそのまど神様の腕は傷だらけであるとほむらの目には映る。
その傷は、その前にインサートされた3周目の映像、ワルプルギス戦後に倒れ魔女化しかけ、ほむら自らが殺した時のまどかの腕と同じ場所にあるのです。
まどかは傷だらけになって自分の救済をしようとしてくれている。しかし、しかも、その傷をつけたのは自分自身なのだ。
誰よりもまどかを傷つけたくなかったほむらが、そんな救済、受け入れられるでしょうか?
自分で選び、傷を負ってまで行っていることだからこそ、まどかのその意志は尊重されるべきだとも思います。
でも、それを言ったら、まどかだってほむらの意志(「私なんか助けるよりも、あなたに生きててほしかった」)を裏切っているわけです。ほむらはループの間中、まどかの優しさと勇気にずっと裏切られ続けてきたとさえ言える。
インサートされた3周目というのは、ほむらにとってはまどかに騙されてグリーフシード(これオクタヴィア、さやかちゃんのなんだよねぇ。今回考えるとまたなんと因果な)で強引に救われた回でもある。
ほむらが叛逆するのは、やられたからやり返したんだっていう風にとることもできると思います。
自責からの逆ギレと思うと、なんだかとても人間らしい気もしますね。
そしてこの映画の最終局面は、「鹿目さんとの出会いをやり直したい。彼女に守られる私じゃなくて、彼女を守る私になりたい」という暁美ほむらの最初の願いに再度立ち返ります。
今度はそこに眼鏡の暁美ほむらはいない。
魔女結界内に描いたかつての夢の世界のようにはほむらはしませんでした。
悪魔なのに(悪魔だから?)選別し、たった1つの願いだけを選びました。
その意味は、少し考えたいと思います。