まどかの本音って?

ということで、今日もこっちで劇場版まどマギの『叛逆の物語』についてネタバレとか気にせず思ったことをダラダラと呟きます。
まどかの本音ってやつについて。









なんかツイッター眺めてたら、フォロー外の人のなんですが、「ほむらちゃんまどかの本音に触れてまどかの本当の気持ちに気付いて、それを尊重して叛逆始めたんだ、あれこそ相手を思いやる愛だ」みたいな感想見かけて、いやいやいや…と。

昨日も書いた気がしますが、ほむらが円環世界でのまどかの選択の話をして、まどかがそんなの辛いよ出来ないよって本音(ほむら主観)を言う場面なんですけど、あれはあの時点のあのまどかだから出てきた言葉であって、TV版の最終話で「さあ、叶えてよインキュベーター!」って契約したときの気持ちとはまた違ったものなんですよね。
良くも悪くも時間は流れてるし、あのまどかもあの時のまどかと同一ではありません。良くも悪くも変わっているのです(成長とは敢えて言わないですが)。

契約時のまどかが寂しい、辛い、出来ないと言わなかったのは、まだ家族や友達と別れるということを本当の意味で理解できていなかったからだし、概念化して別れたからこそそれを実感できているんです。
もっと言うと、記憶を失っていたとはいえ、本来ありえなかった再会をしてもう一度家族や友達のぬくもりに触れてしまったからこそ、草原(花畑?)のまどかは離れたくないと思ってしまうわけです。
更にいうと、決断に至るまでのTV版での経験の記憶、ほむらがループして頑張ってきたこと、歴史上の魔法少女の運命の記憶、更にいうと概念化してからの経験があのまどかにはないんです。
それって、本当にほむらの知っている鹿目まどかですか?
視聴者の皆さんの知っている鹿目まどかですか?
だから、あれはあの時点での、友達や家族との別離と再会という経験をし、更に記憶を失ったまどかの本音であって、概念化したあのまどかの本音ではない。
それをほむらは分かっているのか、分かっていて尚なのかというのはよくわかりませんけれど、違うんですよ、あれ。
前後不覚の人間の感情から出た言葉は、本音だとしても、当人の意志ではないのです。
ほむらがまどかの本音を尊重した、まどかを大事にした、あれこそ相手のことを思う愛の形だっていうのは、だから違うと思うんですよね。
ほむらのあの愛は相手の意志を完全に無視したエゴイスティックな愛です。
まどかの、魔法少女の気持ち、意志を尊重するという博愛的な愛に対比される、ほむらの自分勝手で醜悪な愛。だからこそいいんですよ、ほむらは。