『結城友奈は勇者である』における障碍描写について

●その1

 さて。『ゆゆゆ』とは直接関係はないのですが、先日、Twitterにこういう投降が流れていました。

 私が関連して思い出したのが、『ゆゆゆ』におけるハンディキャッパー、足の不自由な車椅子の東郷さんの描写のことでした。
 作中、学校や街中での東郷さんというのは、勿論車椅子ですから立って歩いている大多数の中では非常に目立ちますし、誰かの介添えを必要とする場面も色々とありましたが、友奈ちゃんや勇者部のメンバーはじめ、モブの生徒やうどん屋さんなど含めて、誰もそれを特別視しないで、当たり前のように受け入れたり手助けしたりしておりました。東郷さんもそうやって手助けされることに負い目など感じてなさそうで、臆することもすまなそうにすることもなく普通に皆と笑いあっていて、まさに先のツイートの「メガネ」のような、理想的な障碍の社会での受け入れられ方というものが描かれているように思われました。

 放映当時には、下記の記事のように、そういった、施設的なことも周囲や本人の受け入れ方のこともひっくるめての、理想的なバリアフリーの描写を好意的に評価する向きも見られました。

アニメ「結城友奈は勇者である」の徹底したバリアフリー描写が凄い - エキレビ!(1/2) http://www.excite.co.jp/News/reviewmov/20141127/E1417016920537.html

東郷美森という一人のキャラを通じて、ありとあらゆる場所でのバリアフリーを表現しています。
施設類の説明は、一切ありません。
キャラクターも、東郷の足について一切語りません。
少女たちだけでなく、東郷の補助に多くの大人がついてくれています。
結城友奈たちの住む世界では、これが一般的です。

 こういった東郷さんの障碍についてのバリアフリー描写については、雑誌のスタッフのインタビュー記事などによると、モデルとして取材した中学校に実際にそういう車椅子の生徒さんがいて、周囲も本人も特別扱いすることなく、互いに物怖じすることなく普通に接していたことが印象に残り影響したそうです。温泉に特別な車椅子を用いてスロープ入っている描写などもありましたが、先の記事に詳しいですが、それも実在する車椅子や施設が基になっています。
 つまり東郷さんの描写は別にスタッフが頭の中だけで考えた理想的なバリアフリーを描いたようなものではないのですが、それでもそれは、最初に引用した「メガネ」のツイートのような、「誰も特別視しない、本人も負い目を感じない。当たり前にある」という、障碍に対する社会の理想的な受け入れ方がされている世界の描写であったのです。
 このまま東郷さんの障碍が、この「メガネ」に対するような理想的な扱いのまま、誰も気にすることなく、お話的にも一切その意味などが語られずに物語が終えられていれば、障碍を「メガネ」のように描いた作品として、今とは違った形の評価をされていたかもしれません。でも、実際の『ゆゆゆ』はそういう作品にはなりませんでした。

 最初に引用したメガネのツイートに対して、印象的な1つの反応ツイートがありました。

 『ゆゆゆ』はそんな、理想とは違う眼鏡の人の受け入れ方のようなものも提示し始めるのです(実は第1話から提示しているのですが↓)。


●その2

 さて。また『ゆゆゆ』とは直接関係ないのですが、先日、こういったツイート群がTLを流れていきました。

 凄く良くわかります。障碍者に限らず、自身ではどうにもならない身体的なものや性的志向、何が好きであるかの趣味嗜好などが周囲の多数と違う、マイノリティであるというだけのことが、普通ではない、特別なひとやものとして扱われるということは、堪えるものです。
 だからこそ、マイノリティであることが普通のこととして扱われることは望まれるし、そうすることがポリティカル・コレクトネスであるなどとして、多方面から評価されることや、それこそが当然とされる傾向などがあるわけです。

 前段の最後では、もしも『ゆゆゆ』の東郷さんの障碍が、当初一部から評価され期待されたように、一切特別なものとしては描かれずにいれば、きっと『ゆゆゆ』はそういった、ポリティカル・コレクトネスな作品として評価されたのではないだろうか、しかし実際の『ゆゆゆ』はそういう作品ではなかった、と書きました。

 『ゆゆゆ』は途中から東郷さん以外の主人公達も身体昨日を喪失し、障碍を負っていくことになりました。東郷さんの足の障碍にも物語的な意味が付与され、それまで描写されていた(いなかった)ような、特に物語的には何の意味もない、背の高さ低さ程度の普通の身体的特徴の1つではなく、過去の悲劇を表す特別な特徴になってしまいました。
 ここで前段のメガネのツイート的なもの、ポリティカル・コレクトネス的な作品を期待していた視聴者からは失望の声が上がりはじめ、逆にドラマティックな悲劇的展開に衝撃を受け感情を揺さぶられる視聴者と、そういった作品展開とその受容者を感動ポルノと揶揄するような視聴者が目立つようになり始めます。
 僕はただただ衝撃の展開とそれに翻弄される少女達の姿を食い入るように見ていたので、感動ポルノと揶揄されるような部分にハマっていた部類に入るのでしょうね。

巷にはびこる「感動ポルノ」とは? - Togetterまとめ http://togetter.com/li/825350 via @togetter_jp

 『ゆゆゆ』が、いたいけな少女を酷い目に合わせたり障碍者にして苦労させ、健気に頑張り生きる姿で心を動かし視聴者を気持ちよくする感動ポルノであり、そこを売りにした作品であるというのは、各キャラクターが後に障碍を負う部分を手で押さえていたキービジュアルからも分かる事で、スタッフもそれに自覚的であったというのは間違いのないことのように思われます。

 では、序盤の東郷さんの理想的なバリアフリー描写というのは、その為の、上げて落としたり、スピンオフの前日譚との関連を示したりする、視聴者を驚かせる為だけの、単なる感動ポルノの下準備だったのでしょうか?

 僕はそうではないと思うのですよね。

 そもそも『ゆゆゆ』の主人公、勇者達が戦いの中で障碍を負うのは、キャラクターを殺さない為であったとスタッフはインタビュー記事で語っています(出典を示したいのですが今手元になくて確認できないので各自調査でお願いします。多分G'zマガジンです)。キャラクターを死なせずに戦いの悲惨さや緊張感のようなものを出すにはどうすればいいか、と考え抜いた結果のアイディアだそうです。
 登場人物の死で、或いは死より酷い目に遭わせることでより強い感動を視聴者に起こそう、というような方向ではなく、登場人物を死なせたくない、死の代わりに何があるか、という方向性なわけです(これ、神樹様の満開実装後の勇者システムの、勇者を死なせない、ただしその代わりに散華があるというのに通じていると思います)。

 『ゆゆゆ』にとって、障碍の描写というのは物語を盛り上げる手段ではあっても目的ではないのです。

 なので、障碍の理想的な受容とか、ポリティカル・コレクトネスな作品というのも最初から目指してすらいないのですね、きっと。『ゆゆゆ』のバリアフリー描写は、そういった何らかの思想があってのものではなく、多分、取材対象への真摯な取材の結果としてそうなったというだけのものなのです。
 真摯な取材の結果として、取材もした障碍者の実際の姿を単なる感動ポルノの道具に仕立て上げたのだと考えるとドン引きですが、逆に考えると、そんなわけないのですよね。


●その3

 以前、『ゆゆゆ』に対しての呟きのまとめを作りました。

『ゆゆゆ』の身障やら車椅子やらの描写は結局なんだったのかというと - Togetterまとめ http://togetter.com/li/785356

 それへの反応の中で、

ロリコンの身障萌えポルノなので言い訳はないのが良い、なら一見お綺麗な話と絵面で作らず素直にエログロアニメやれよってなるよねデビサバ2みたいにひたすらおっぱいとか強調して。

 というコメントがあり、え、言ってるのそれの逆な(つもりな)のにと思いつつハッとしたのですが、私がこのまとめで長々と語って伝えたかった『ゆゆゆ』の良さって、まさにそこ、感動ポルノ、障碍萌えであるのに、それを強調したエログロアニメではないというところで、つまり、障碍を特別なものとして描きながらも、それを殊更に強調したりデフォルメしたりはしなかったという部分なのですよね。

 『ゆゆゆ』は最終的に東郷さんの足を含め、全ての登場人物達の負った障碍を回復させます。治さずにそれを当初の東郷さんのバリアフリー描写のようにごく普通のこととして皆が受け入て生きる姿をよしとするような、ある種の理想的な、ポリティカル・コレクトネス的な物語にするのではなく、障碍を特別な苦しいこととして、それを抱えて生きていく少女達の健気な姿に視聴者が涙を流す感動ポルノでもなく、障碍をなくしてしまう。

 障碍を普通のこと、なんでもないこととしてポリティカル・コレクトネスな作品にはしなかった。
 障碍を特別なこととして描きつつも、最終的にそれに耐える少女の感動ポルノという構造も破壊してしまった。

 残ったのは、ポリティカル・コレクトネスでも感動ポルノでもない、単なる中学生の少女達の、部活を通しての青春の1ページの物語だった。そこには障碍の有無はなんの関係もない。あってもなくても同じ。動かないのが東郷さんの足でも、友奈の足でも変わらないし、どっちも動けなくても、どっちも立って歩けてもそれは何も変わらない。僕にはそれがとても眩しい。

 大赦が園子を崇め奉ったように、前向きに健気に生きていく少女たちを視聴者が尊んだり、或いは本人たちも視聴者も障碍を抱えたままでも気にしないでよしとするような終わり方というのもあったと思うのですよ。
 でも、実際はそうではなかったからこそ、僕には『ゆゆゆ』が、『結城友奈は勇者である』という作品が、とても好ましいのだろうとも思うのです。それがポリティカル・コレクトネスではなかったとしても。いや或いはだからこそ。
 勿論、それも一要素でしかなくて、『ゆゆゆ』のいいところ、好きなところはいーっぱい、いーっぱいあるのですが、今回はこの部分について語らせていただきました。
 トゥギャッターのまとめと重複した、最終的には引用してのそのままな語りになってしまいましたが、これをもって、自分なりの1周年への祝辞的な何かとさせていただきます。

 『ゆゆゆ』、大好きです!
 これからの展開も楽しみにしています!!