鹿目まどかとは何者だったのか(GD# vol.39 掲載記事)

魔法少女まどか☆マギカ』という物語

 『魔法少女まどか☆マギカ』は閉じられた物語だ。第1話アバンの文字通りの幕が上がる舞台開幕の演出より、最終話Cパートを綴じる閉幕までで一つのパッケージとして完結している。また、その本当の閉幕が行われる以前の時点でも毎回閉じられてきた物語でもある。
 第10話で描かれる、暁美ほむらの時間遡行の魔法の力とそれによる運命改変のための繰り返しが、 1話冒頭で主人公鹿目まどかが見た夢の内容やほむらの言動にそれまでとは違った意味を付加し、それまで視聴者が感じていた物語の印象を上書きするのが象徴的だが、話数と共に伸びていく(その時点での)ストーリーの終着点は、1話からそこまでの意味を何度も書き換えた。
 例えば1話の時点ではほむらが転校してくるシーンはまどかにとってほむらとの初めての出会いであるが、10話で付加された情報によって1話のその邂逅が二人の初対面の場面ではなく再会の場面となってしまったし、魔法少女と魔女の戦いの構造は後に魔法少女が魔女の卵であることが明らかになり一気に悲劇の度合いを高める。「ティロ・フィナーレ」と叫び華麗に魔女と戦っていたベテラン魔法少女巴マミさんは、4話以降、必殺技名など叫ばない他の魔法少女が登場することによって、必要のない芝居がかったポーズや掛け声をわざわざ行っていた厨二病的キャラへと認識が改まっていった。言うなれば1話の内容は、1話、2話、3話、…、10話、11話、最終話と全てに事実とされ存在しているが、それぞれの話の中での意味合いが違うのである。
 1、1−2、1−2−3、1−2−3−4、1−2−3−4−5、…、1−2−3−4−5−6−7−8−9−10−11−12。
 それはそれまでに語られた物語の内容を後付で改変していったということではなく、新たな話を付け加えることによって過去に放映された内容、起こった事実はそのままに、しかしその意味合いだけを次々と上書きしていったということである。2話は1話を内包しつつ1話の意味合いを変え、3話は1話と2話、更に2話の中の1話を内包しつつ意味合いを変え…、入れ子のように後の話はそれまでの話を内包しつつその意味合いを変えていく。その最後の上書きが最終話であり、それまでと同じようにそれまで語られた物語を一切否定することなく、内包した上で一個の作品として綴じてみせたのが、『魔法少女まどか☆マギカ』という作品である。
 個々の話やシーンが最終回という最後の物語への回収と帰納していく様など非常に丁寧に作られているが、こういった、後から発覚する事実によって前段の意味が変わっていく物語というのは別に物凄く珍しく特別な構造というわけではないし、この構造と相性がいい時間遡行による運命改変やタイムパラドックスを扱った作品としても、本作品よりその構造や題材に最適化されたウェルメイドだったり、よりそこにカタルシスを生む作品は存在するだろう。しかし『魔法少女まどか☆マギカ』は、この物語を読み替えるという構造そのものの物語であるという点が実に興味深い作品である。


暁美ほむらという物語への反逆者-GamePlayer-

 『魔法少女まどか☆マギカ』を主人公とされるまどかの視点からみると、前段に書いたような構造の話になる。彼女が歩み見てきたエピソードが、新たな情報や解釈を付け加えられることで次々と意味合いを変えていく物語。それは、まどか自身が主人公として行った物語の決着の方法とも重なる。悲劇的な物語をなかったことにするのでも一から書き直すのでもなく、まどかという物語の最後の決定権を握る主人公が、悲劇的に映る物語をよかった探しをするように敢えて幸福な話であるという解釈をし、設定を一つ付け加えることで(彼女にとっての)ハッピーエンドにしてしまったというのがこの物語の結末である。
 一方で、作中にはこの物語をまどかとは全く反対の視点から見て、救いような不幸な話だと解釈し、改変されるべき、或いはなかったことにされるべき物語だと行動を起こしてきた人物がいる。暁美ほむらである。
 ほむらはその願いにより、時間を操る魔法少女となって、まどかの物語を改変しようと過去に舞い戻る。彼女が死ぬ結末を変えるために共に戦い、その方法では悲劇が回避できないと知り、また別の形の悲劇が生まれると知ると、今度は「魔法少女まどか」の物語が生まれないように、まどかを魔法少女にしないための過去改変を行うために時間を飛ぶ。第10話はそのほむらの視点で物語られた、ほむらを主人公として見たこの物語の形だった。そこで語られるほむらの様はまさに典型的な物語の主人公そのものであり、望まぬ悲劇的な結末を否定し何度でも立ち上がりやり直そうとするその姿は、ゲームオーバーやBADエンドを認めずに最良の結末を目指すゲームプレイヤーのようでもあった。しかし結局、このほむらの望みは決して適うことなく、逆に彼女が繰り返した時の因果はまどかの物語を完成させるための要素として働いてしまう。
 まどかを救うために物語に反逆し、現実という名のゲームを何度も最初からやり直し、選択肢を選び直し続けた彼女が最後に知るのは、望むハッピーエンド、TRUE ENDがプログラムされていない、存在しないという絶望である。
 11話に至って、まどかはそんなほむらの物語を知る。自分を救おうと永遠の迷路に入り込み、痛み傷つき戦い続ける彼女の物語を。まどかはほむらを受け入れ、感謝し、最高の友達だと抱き締める。その上で「ごめんね」と彼女に謝罪し、彼女が全てをかけて否定しようとしてくれた物語を肯定する。ほむらが否定してくれる姿を見たからこそ、自らの魔法少女としての物語を受け入れる。
 『魔法少女まどか☆マギカ』という物語は、それを否定しようと挑むほむらというプレイヤーによって成立し、その否定すら含め全ての物語を肯定するまどかによって結末を迎えるのだ。


鹿目まどかという少女の祈り-Little prayer-

 『魔法少女まどか☆マギカ』という物語のページを捲り進行させたのは暁美ほむらである。前段でも述べたように彼女はさながらにゲームのプレイヤーであり、悲劇的な物語を外部視座から観測し、外の立場から悲劇を回避できるよう物語を改変しようと世界を自らの意志でループさせる。しかし外部の人間である故に物語内部の登場人物やヒロインにはその行為自体もその意味も理解されず、繰り返す周回の中で育んだ経験、努力も想いも誰にも憶えていてもらえるわけでもない。
 それをまどかに縋りながら「気持ち悪いよね」と自嘲する暁美ほむらの姿とは、物語を外部から見つめるしかできない我々の姿そのものであり、彼女の絶望――同じ時間軸の話を様々なルートで繰り返しやり直した分だけの物語を生み、まどかが最高の魔法少女になる最終ルートに向けてフラグを立て続け、鹿目まどかの最後の物語を導き出してしまうという結末に辿り着いたときに得る絶望――は、望む結末が仕様で用意されていないゲームに我々が抱く絶望と同じである。
 もしもこの作品がテレビアニメではなくゲーム作品であったなら、プレイヤーが操作するプレイヤーキャラクター、いわゆる物語の主人公は間違いなく彼女、暁美ほむらであり、その場合の鹿目まどかはいわゆるヒロインであり物語を象徴するNPC、『ゼルダの伝説』におけるゼルダ姫、『スーパーマリオブラザース』におけるピーチ姫にような救済の対象であって主人公ではなかっただろう。
 全てを知ったまどかがほむらに言う「ごめんね」から始まる彼女の言動は、物語の内部視座から外部のほむら≒我々への謝罪と感謝である。物語の登場人物であるまどかが外部の読者に語りかけ、自身の物語を全うするという決意表明をする。見ようによっては、『魔法少女まどか☆マギカ』とはそんな作品なのである。
 しかしそれは、ほむらの視点から見た場合の話である。実際にはこの作品は鹿目まどかの目線で描かれている。ゲームを攻略しストーリーを進行させるほむらではなく、救済されるべきヒロインである鹿目まどかこそが物語の主人公であり、決着をつけるのも彼女自身なのだ。
 鹿目まどかは『魔法少女まどか☆マギカ』で描かれた全ての魔法少女の物語を肯定する。それを否定するほむらの物語も、彼女が否定しようとしてくれた自分自身の悲劇的な物語も全て肯定した上で、ただ魔女になるという結末だけを否定する。
 その能動的な物語の解釈と行動、選択をする姿は外部の存在に救済される対象ではなく、自らが救済を行う主体、物語の主人公そのものであり、物語の外部視座にいた暁美ほむらさえも彼女は救ってみせる。そしてその為に物語外部のほむらの更に外部までまどかの存在はシフトする。
 願い、祈り、『魔法少女まどか☆マギカ』という物語を全うする彼女は、ほむらを含めた作品内の世界、宇宙、それら全ての外側へと飛び、作品世界の内部からは消えてしまう。まるでコンピュータゲームの世界を救ったゲームプレイヤーの存在が、ゲームのクリアと共にゲーム世界からは消えてしまうかのように。


鹿目まどかとは何者だったのか

「君は本当に神になるつもりかい!?」

 作中で鹿目まどかは問われる。神様でもなんでもいい。彼女はそう答え世界を改変する。しかし彼女がした改変はほんのささやかな物で、実際的には「悲しみと憎しみばかりを繰り返す救いようのない世界」は何一つ変わってはいない。彼女がしたのは、ほむらが願ったような不幸な物語の改変や消滅ではなく、物語に設定を一つ付け加えただけであり、解釈のし直し、物語の読み替えに過ぎない。世界を救済する神、宇宙を一から創造しなおす神というには余りにもお粗末であり、とても絶対的な神と呼べるような存在ではない。自身が言ったとおり、彼女は「神様でも何でもいい」のであって、決して神ではないのだ。
 では彼女は何者だったのだろう。
 作中での表現を借りるとすると夢と希望であり、それを叶える魔法少女という概念そのもの。「子供の頃にはよくある見えないお友達」「君の頭の中にしかない夢物語」。ほむらの最高の友達。「魔法少女」と呼ばれる物語の登場人物そのものだ。
 彼女が実際にしたことから考えるなら、彼女は物語を最外部から読み替えた存在である。暁美ほむらという、「魔法少女まどか」の物語に憧れ、内部に入り、しかしそれを不幸だと気づいて外部から改変しようとしてくれた視座の存在にまどかは気づき、彼女を含めた自らの物語を外から評価し、解釈し直し、小さな改変を加えて読み替えた。
 まどかは物語を創りだした神=創作者ではないが、物語を読んで解釈し小さな改変を加えることが出来る読者にはなれた。そして読者となった故に物語内部からは消え去ったが、「頑張って」と物語の登場人物たるほむらたち魔法少女を見守りエールを送れる存在となったのである。
 物語の登場人物にしてその読者。それが鹿目まどかという存在だ。
 物語を読み、時にその登場人物たちと一緒に物語内部を駆け、共に悩み、時に何もしないできない第三者として苦しみ、物語の内容に糾弾され、その不幸な出来事や結末に胸を痛め、やり直そうとして叶わず、しかし読み直し解釈しなおすことで物語の意味合いを自分の中で変える。それは、前段で書いた暁美ほむらの姿であり、物語の受け手たる我々の姿でもある。
 鹿目まどか。それは物語の受け手を物語の内部に誘い招いてくれた存在であると同時に、自ら物語外部の受け手と同じ場所まで降りてきてくれた存在であり、我々の姿の写し鏡でもある。そんな存在が主人公として宇宙を作り替え、世界を救う。それは、物語の受け手を賛歌する物語である。


魔法少女まどか☆マギカ』という御伽噺

 自分を無能だと自嘲していた少女が、過去に同じように自嘲していた少女の姿にそれと知らずに憧れた。それがすべての始まり。人が生きることで物語は織り成される。それを見い出し、何かを感じて生きることで新たな物語が生まれ、更にその物語から最初の物語の少女や別の誰かが同じように何かを感じ、更なる物語を紡いでいく。
 『魔法少女まどか☆マギカ』とは、物語の作り手ではなく、読み手の物語である。
 物語を創作しようとするのでも、書き換えようとするのでも、やり直すのでも、なかった事にするのでもなく、描かれた全てを、良かったことも、悪かったことも全部そのままテクストとして認めた上で、その意味を読み替える話である。そういう構造をもった作品である。
 この作品のEDテーマ『Magia』には以下のような一節がある。

 囚われた太陽の輝く
 不思議の国の本が好きだった頃
 願いはきっと叶うと
 教える御伽話を
 信じた

 御伽噺は寓意や教訓、痛烈な皮肉を含んでいることも多いが、同じ話を元にしながら違う結末で語られる物語は少なくない。それを伝えようとする語り手次第で印象は大きく異なる。鹿目まどか暁美ほむらに読まれた物語の登場人物であり、暁美ほむら魔法少女達の物語を読んだ受け取り手でもある。そして彼女は自分やほむらを含む魔法少女達の紡いだ、そんな「願いはきっと叶うと教える御伽話」の語り手となることを選んだのだ。
 作中では鹿目まどかが最後の読み替えを行いその語り手となったが、我々には更にそれを読み替えることも出来る。暁美ほむら魔法少女まどかの姿に憧れ魔法少女になり、彼女を守りたいと救いたいと永遠の迷路を彷徨い続け、そんな戦い傷つき続けるほむらの姿を見たまどかが全ての魔法少女の物語を肯定したように、そのまどかの意志を見たほむらが荒野で戦い続けたように、我々も一人一人、『魔法少女まどか☆マギカ』という物語を見て感じたその後のことを自由に決められるし、その語り手となることもできる。
 それは何の物語であってもそうであるし、特筆することではないかもしれないけれど、そういう当たり前のことを敢えて構造として持つからこそ、この物語は多くの物語の受け手たちの心に響いたのではないだろうか。