『結城友奈は勇者である-勇者の章-』最終回感想

 濃厚過ぎる最終回でありました。

 極限までキャスト数や状況説明、戦闘シーンを削っても、明らかに尺が足りていないのではというところに、これでもかとぶち込まれる描きたかったであろうこと、描くべきと判断されたところが溢れまくっていましたね。

 尺、もうちょっと尺! というのが視聴直後の感想の1つではありましたが、語られた内容、描かれた勇者部の姿には正直、何も語る言葉はなく、ただ黙って勇者部に祝杯を挙げるのみでありました。 

 呑みながらTLを眺めつつ、改めて振り返ったりもしたのですが、振り返るともう良さしか感じられなくて、尺不足の不満もどこかに行ってしまいました。アルコールのせいもあったと思いますが、1期と同じく、設定などでの見えない部分、分からない部分もありましたが、それは相変わらず主人公の友奈達勇者部にも分からない部分であって、神世界ではなく、彼女達の物語を見るにあたっては、分からなくても問題なく、寧ろ分からないところで寄り添える部分もありますし、その点でも個人的には不満は特にないです。後からファン同士でああでもないこうでもないと考えたり話し合うのも、それはそれで楽しいですしね。

  そしてやっぱり、自分が求めていたもの、見たかったものがそこにあったので、ほんと、何にも言うことなかったのですよね。東郷さんが「友奈!」って呼び捨てにしたり、友奈と夏凛ちゃんが互いにごめんと謝って、部室でのケンカも仲直りして。互いに助けた助けられたなんて負い目がどこにもなくて、ただの対等な友達の関係だけがそこに描かれていて。本当に、嬉しかったんですよね。

 

 1期の時、こんな感想を書きました。 

個人的にこの作品は、世界からシステムから、設定とかストーリーから何から何までもが、毎回のEDの下校風景と最終回の下校風景と最終回のEDの下校風景の変化と対比の為にあったというか、結局その為だけに使われたって印象で、東郷さんの車椅子を押して介添えしていた友奈が、逆に東郷さんに介添えしてもらって車椅子を押してもらう、一緒に立って並んで歩くというその変化と、どの立場であっても変わらない2人と勇者部の楽しそうな様子と笑顔っていう、ただそれだけが描きたかったんじゃないかと思ってて、それは世界がどうとか身体障害がどうとか、救われて治ってハッピーエンドでよかったねとかそういう話ではなくて、単に、どちらかと言えば守る側と守られる側、助ける側と助けられる側、手を引っ張る側と引っ張られる側といったような、どこにでもある、完全に対称ではない友達関係の問題と問題のなさを強調しているだけで 、勇者としてのあれこれは部活動と、それを巡っての友達同士の真剣な喧嘩でしかなくて、どこか非対称だった友達関係や姉妹関係が対称的に、対等な関係になっていく過程でしかなくて、結局のところ、この作品は友奈と東郷さん、勇者部の皆の友情と青春の物語でしかないと思ったし、そういうものとして見て、凄く好きだったなあと思うのです。

  2期も変わらず、そういう作品であって。大好きだなあと、改めて思いました。

 1期より精神的につらいケンカを勇者部の皆はしましたけれど、でもそれは、本音をぶつけあって、お互いがお互いが思ってのことだというのも分かり合っていて、その上で、だったので、雨降って地も固まって。

 欲を言えば後日談を延々と、出来ればアニメで、勇者部所属的なゆるふわなのでもいいですけれど、普通に時間が進んでいく、ホームドラマとしての日常アニメを毎週届けるくらいして欲しいのですけれど。

 ともあれ、ほんと何も言うことはないです。

 ただただ、素晴らしい先品を時間をありがとうございましたと、それだけです。

 スタッフ、キャストの皆さん、そして勇者部の皆に最大限の拍手を。 

 

 

オマケ。Twitteの #yuyuyu タグで気になった実況・感想ツイート群

 

  

 

 

 

泣くしかないよね。2話で夏凛に銀を重ね合わせてた園子があるので余計に泣ける。

そして

 

 

ほんと勇者シリーズは過去の話と重ねてくることが多いですが、12体のバーテックスの技を天の神が自ら使ってくることで最終決戦でもこういう重ねが発生するという…。

 

 

これ、神樹様が満開した力を人間である勇者に全て託したのと正反対で、多分対比にもなっていますよね。

 

 

風先輩、友奈、東郷。樹が入学・入部してくるまでの3人の勇者部の1年間も、公式でいつかちゃんと見てみたい気がします。というかここの役割分担から行動への流れ、言葉少なでも分かり合って即連携するお互い、その信頼関係やそこに至る迄の積み重ねが見えてほんっっと最高でした。樹ちゃんが言い出す前に頼む風先輩にももう、妹の成長への感慨がないんですよ! 幼い妹ではなく、対等な1人前の勇者として扱ってる!!

 

 

 

BGMが、BGMが…

卑怯すぎて泣く。泣くしかない。

やっぱ、1話で園子の問いかけに銀、答えてたんだよ。園子はそれを聞いたから須美のことを思い出して泣いたんだよ…

 

 

 

こうなったらいいなあという、『ゆゆゆい』含めての西暦勇者のカメオ出演がほぼほぼ叶って感謝しかないです。巫女のひなた達もいるし、歌野と水都の向こうの緑の子達はメブ達防人だと思うし、もう、なんも言うことなく。

勇者部の面々もいる辺り、アストラル体なんだろうなとか、鳥になっていた若葉見る辺り、戦死した勇者や巫女たちは精霊化かそれに近い形で神樹様の眷属化していたのかな、とか、『ゆゆゆい』での記憶を持ってるんじゃないのかとか、考えれば考える程目頭が熱く。

戦闘ではなく、東郷さんが友奈を助ける為に手を貸してくれたというのも素晴らしかったです。

 

 

 

人間じゃなくなることは多分、大きな問題じゃなかったんですよね。人間であろうとなかろうと、友達を犠牲にする、友奈や東郷さんがいなくなることを前提として存在する世界ならばいらない。

1期友奈「東郷さんがいるから地獄じゃないよ!」

それは裏を返せば、大切な友達がいなかったら、そこは天国みたいな世界でも地獄なんだ、という話。

 

 

 

「鷲尾須美の章」と「勇者の章」を合わせて『結城友奈は勇者である』2期なんよね(号泣)。

 

 

 受け止める一瞬が、高嶋友奈の姿のようにも見える。

 

 

  

 

 

あれだけ大赦に徹しようとしていた安芸先生が生き残れていたんだから、多分大丈夫。そういう意味でも安芸先生の勇者の章への抜擢は大きい。

 

 

この横断幕を保管していたの、安芸先生か鷲尾家だと思うんですよね 。2人ともあの時、あの後ずっと家には帰れていないだろうから。安芸先生、もしくは鷲尾のご両親が東郷さん達に手渡したんだとしたら、もうそれだけでそこにドラマが。

 

 

安芸先生の目と関係あるのかないのか。 

 

 

本当に良かった。仲良し3人組とそれを見守る安芸先生の構図の復活。ようやく仮面に押し込めていた涙を流せた安芸先生にもらい泣き。

 

 

 

6人だから六箇条を1つずつ書けるっていう。これ思いついた人、スタッフさんも勇者部の誰かもどっちも本当に素晴らしい。 

 

 

愛しかない。

そして通常のキャストロールの最初にある「安芸先生」にまた目頭が。

キャスト表記がネタになるのはよくあるけれど、まさかそこで泣かされるとは…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ありがとうございました!

 

『君の名は。』についてはずっと何か書きたいなあとは思っているので

君の名は。

 公開前は、折角の全国公開で近場でもやる深海アニメなんだし、観に行かなきゃな、くらいの意識で、周囲と話題にするのも、「新海誠、天門と組んだ元ファルコムコンビのままでメジャー行って欲しかったなー」という弟の声に相づちを打ってたくらいで(同時に、世間的には元オウムの平田信と斎藤明美が出頭前に最期に借りたDVDのうちの1つが『秒速5センチメートル』てくらいの認知度ではないかという話をされたけど、それは凄くマイナーな話じゃないかと返した)、特に凄い期待みたいなものはなかった。
 後、誰か試写会を見た人が、「いずれ『シン・ゴジラ』と並べて語られる」みたいなことをTwitterで言っていて、震災関連の何かがあるのかな、という予想はしていたけれど(正直、変な先入観入っちゃって迷惑だなあと思っていた)、それくらいだ。
 公開初日、たまたま仕事で上映館のある市に午後までに行くので、午前中に市に入って仕事に行く前に観たら丁度いいな、と思って映画館に行ったのだ。

 そしたら、凄く感慨深い作品だったのであった。

 『ほしのこえ』の続きがあった。
 『秒速5センチメートル』の遮断機を越えた先に、『言の葉の庭』の未来があった。

 ああ、『ほしのこえ』のノボルは遂にミカコに追いついたのだ。そう思った。

 スタッフロールをじーんとしながら見終えた後、出口に向かって驚いた。入れ替えで次の回を待っている中高生がそこには大勢いたのだ。



…みたいな感じでエッセイのような感想文を書こうとしていたのだけれど、どうにも書けない。

いつか機会があれば続きを書きたいな、と、TV放映に合わせて書き出しだけ公開し、ツイログのリンクを貼ってお茶を濁すなど。

http://twilog.org/H926/search?word=%E5%90%9B%E3%81%AE%E5%90%8D%E3%81%AF&ao=a&order=allasc

『結城友奈は勇者である』における障碍描写について

●その1

 さて。『ゆゆゆ』とは直接関係はないのですが、先日、Twitterにこういう投降が流れていました。

 私が関連して思い出したのが、『ゆゆゆ』におけるハンディキャッパー、足の不自由な車椅子の東郷さんの描写のことでした。
 作中、学校や街中での東郷さんというのは、勿論車椅子ですから立って歩いている大多数の中では非常に目立ちますし、誰かの介添えを必要とする場面も色々とありましたが、友奈ちゃんや勇者部のメンバーはじめ、モブの生徒やうどん屋さんなど含めて、誰もそれを特別視しないで、当たり前のように受け入れたり手助けしたりしておりました。東郷さんもそうやって手助けされることに負い目など感じてなさそうで、臆することもすまなそうにすることもなく普通に皆と笑いあっていて、まさに先のツイートの「メガネ」のような、理想的な障碍の社会での受け入れられ方というものが描かれているように思われました。

 放映当時には、下記の記事のように、そういった、施設的なことも周囲や本人の受け入れ方のこともひっくるめての、理想的なバリアフリーの描写を好意的に評価する向きも見られました。

アニメ「結城友奈は勇者である」の徹底したバリアフリー描写が凄い - エキレビ!(1/2) http://www.excite.co.jp/News/reviewmov/20141127/E1417016920537.html

東郷美森という一人のキャラを通じて、ありとあらゆる場所でのバリアフリーを表現しています。
施設類の説明は、一切ありません。
キャラクターも、東郷の足について一切語りません。
少女たちだけでなく、東郷の補助に多くの大人がついてくれています。
結城友奈たちの住む世界では、これが一般的です。

 こういった東郷さんの障碍についてのバリアフリー描写については、雑誌のスタッフのインタビュー記事などによると、モデルとして取材した中学校に実際にそういう車椅子の生徒さんがいて、周囲も本人も特別扱いすることなく、互いに物怖じすることなく普通に接していたことが印象に残り影響したそうです。温泉に特別な車椅子を用いてスロープ入っている描写などもありましたが、先の記事に詳しいですが、それも実在する車椅子や施設が基になっています。
 つまり東郷さんの描写は別にスタッフが頭の中だけで考えた理想的なバリアフリーを描いたようなものではないのですが、それでもそれは、最初に引用した「メガネ」のツイートのような、「誰も特別視しない、本人も負い目を感じない。当たり前にある」という、障碍に対する社会の理想的な受け入れ方がされている世界の描写であったのです。
 このまま東郷さんの障碍が、この「メガネ」に対するような理想的な扱いのまま、誰も気にすることなく、お話的にも一切その意味などが語られずに物語が終えられていれば、障碍を「メガネ」のように描いた作品として、今とは違った形の評価をされていたかもしれません。でも、実際の『ゆゆゆ』はそういう作品にはなりませんでした。

 最初に引用したメガネのツイートに対して、印象的な1つの反応ツイートがありました。

 『ゆゆゆ』はそんな、理想とは違う眼鏡の人の受け入れ方のようなものも提示し始めるのです(実は第1話から提示しているのですが↓)。


●その2

 さて。また『ゆゆゆ』とは直接関係ないのですが、先日、こういったツイート群がTLを流れていきました。

 凄く良くわかります。障碍者に限らず、自身ではどうにもならない身体的なものや性的志向、何が好きであるかの趣味嗜好などが周囲の多数と違う、マイノリティであるというだけのことが、普通ではない、特別なひとやものとして扱われるということは、堪えるものです。
 だからこそ、マイノリティであることが普通のこととして扱われることは望まれるし、そうすることがポリティカル・コレクトネスであるなどとして、多方面から評価されることや、それこそが当然とされる傾向などがあるわけです。

 前段の最後では、もしも『ゆゆゆ』の東郷さんの障碍が、当初一部から評価され期待されたように、一切特別なものとしては描かれずにいれば、きっと『ゆゆゆ』はそういった、ポリティカル・コレクトネスな作品として評価されたのではないだろうか、しかし実際の『ゆゆゆ』はそういう作品ではなかった、と書きました。

 『ゆゆゆ』は途中から東郷さん以外の主人公達も身体昨日を喪失し、障碍を負っていくことになりました。東郷さんの足の障碍にも物語的な意味が付与され、それまで描写されていた(いなかった)ような、特に物語的には何の意味もない、背の高さ低さ程度の普通の身体的特徴の1つではなく、過去の悲劇を表す特別な特徴になってしまいました。
 ここで前段のメガネのツイート的なもの、ポリティカル・コレクトネス的な作品を期待していた視聴者からは失望の声が上がりはじめ、逆にドラマティックな悲劇的展開に衝撃を受け感情を揺さぶられる視聴者と、そういった作品展開とその受容者を感動ポルノと揶揄するような視聴者が目立つようになり始めます。
 僕はただただ衝撃の展開とそれに翻弄される少女達の姿を食い入るように見ていたので、感動ポルノと揶揄されるような部分にハマっていた部類に入るのでしょうね。

巷にはびこる「感動ポルノ」とは? - Togetterまとめ http://togetter.com/li/825350 via @togetter_jp

 『ゆゆゆ』が、いたいけな少女を酷い目に合わせたり障碍者にして苦労させ、健気に頑張り生きる姿で心を動かし視聴者を気持ちよくする感動ポルノであり、そこを売りにした作品であるというのは、各キャラクターが後に障碍を負う部分を手で押さえていたキービジュアルからも分かる事で、スタッフもそれに自覚的であったというのは間違いのないことのように思われます。

 では、序盤の東郷さんの理想的なバリアフリー描写というのは、その為の、上げて落としたり、スピンオフの前日譚との関連を示したりする、視聴者を驚かせる為だけの、単なる感動ポルノの下準備だったのでしょうか?

 僕はそうではないと思うのですよね。

 そもそも『ゆゆゆ』の主人公、勇者達が戦いの中で障碍を負うのは、キャラクターを殺さない為であったとスタッフはインタビュー記事で語っています(出典を示したいのですが今手元になくて確認できないので各自調査でお願いします。多分G'zマガジンです)。キャラクターを死なせずに戦いの悲惨さや緊張感のようなものを出すにはどうすればいいか、と考え抜いた結果のアイディアだそうです。
 登場人物の死で、或いは死より酷い目に遭わせることでより強い感動を視聴者に起こそう、というような方向ではなく、登場人物を死なせたくない、死の代わりに何があるか、という方向性なわけです(これ、神樹様の満開実装後の勇者システムの、勇者を死なせない、ただしその代わりに散華があるというのに通じていると思います)。

 『ゆゆゆ』にとって、障碍の描写というのは物語を盛り上げる手段ではあっても目的ではないのです。

 なので、障碍の理想的な受容とか、ポリティカル・コレクトネスな作品というのも最初から目指してすらいないのですね、きっと。『ゆゆゆ』のバリアフリー描写は、そういった何らかの思想があってのものではなく、多分、取材対象への真摯な取材の結果としてそうなったというだけのものなのです。
 真摯な取材の結果として、取材もした障碍者の実際の姿を単なる感動ポルノの道具に仕立て上げたのだと考えるとドン引きですが、逆に考えると、そんなわけないのですよね。


●その3

 以前、『ゆゆゆ』に対しての呟きのまとめを作りました。

『ゆゆゆ』の身障やら車椅子やらの描写は結局なんだったのかというと - Togetterまとめ http://togetter.com/li/785356

 それへの反応の中で、

ロリコンの身障萌えポルノなので言い訳はないのが良い、なら一見お綺麗な話と絵面で作らず素直にエログロアニメやれよってなるよねデビサバ2みたいにひたすらおっぱいとか強調して。

 というコメントがあり、え、言ってるのそれの逆な(つもりな)のにと思いつつハッとしたのですが、私がこのまとめで長々と語って伝えたかった『ゆゆゆ』の良さって、まさにそこ、感動ポルノ、障碍萌えであるのに、それを強調したエログロアニメではないというところで、つまり、障碍を特別なものとして描きながらも、それを殊更に強調したりデフォルメしたりはしなかったという部分なのですよね。

 『ゆゆゆ』は最終的に東郷さんの足を含め、全ての登場人物達の負った障碍を回復させます。治さずにそれを当初の東郷さんのバリアフリー描写のようにごく普通のこととして皆が受け入て生きる姿をよしとするような、ある種の理想的な、ポリティカル・コレクトネス的な物語にするのではなく、障碍を特別な苦しいこととして、それを抱えて生きていく少女達の健気な姿に視聴者が涙を流す感動ポルノでもなく、障碍をなくしてしまう。

 障碍を普通のこと、なんでもないこととしてポリティカル・コレクトネスな作品にはしなかった。
 障碍を特別なこととして描きつつも、最終的にそれに耐える少女の感動ポルノという構造も破壊してしまった。

 残ったのは、ポリティカル・コレクトネスでも感動ポルノでもない、単なる中学生の少女達の、部活を通しての青春の1ページの物語だった。そこには障碍の有無はなんの関係もない。あってもなくても同じ。動かないのが東郷さんの足でも、友奈の足でも変わらないし、どっちも動けなくても、どっちも立って歩けてもそれは何も変わらない。僕にはそれがとても眩しい。

 大赦が園子を崇め奉ったように、前向きに健気に生きていく少女たちを視聴者が尊んだり、或いは本人たちも視聴者も障碍を抱えたままでも気にしないでよしとするような終わり方というのもあったと思うのですよ。
 でも、実際はそうではなかったからこそ、僕には『ゆゆゆ』が、『結城友奈は勇者である』という作品が、とても好ましいのだろうとも思うのです。それがポリティカル・コレクトネスではなかったとしても。いや或いはだからこそ。
 勿論、それも一要素でしかなくて、『ゆゆゆ』のいいところ、好きなところはいーっぱい、いーっぱいあるのですが、今回はこの部分について語らせていただきました。
 トゥギャッターのまとめと重複した、最終的には引用してのそのままな語りになってしまいましたが、これをもって、自分なりの1周年への祝辞的な何かとさせていただきます。

 『ゆゆゆ』、大好きです!
 これからの展開も楽しみにしています!!

『ゆゆゆ』の障碍描写のこと

放映から1周年ということもありまして、少し『ゆゆゆ』のことなどを。
本当は完全新規で改めての記事を書きたかったのですが、その為の資料が円盤もゲームも雑誌も今ちょっと取り出せなかったので、以前にTwitterで語りトゥギャッターに纏めた話などを使って、思いつくままに、つれづれと、この大好きな作品の一面について語りたいと思います。

みー

2月22日がにゃーにゃにゃーなら、3月1日はみーで、どっちにしろ猫の日なのではあるまいか。

この日も札幌で迎えるのは初めてだろうか。
あの子とチャットしてた時も身体は札幌でキーボート叩いてたような気はするけど、どうだったろうか。
昼頃に舞っていて、ああ、と思わせた雪はやがて雨に変わっていた。
あの子、というのは、我々にとって勇者と言えばこの女の子のことだったのだ、というカナ坊(仮名)のことである。
彼女がオールドホームに旅立ったというのを僕が聞かされたのが3月1日のことで、その日は青森では雪が降っていたのだ。
以来、毎年のようにこの日の雪というものを意識する。

もしも『CLANNAD』が予定通りに発売されていたなら、しのぶさんやカナ坊はまだここに居ただろうか、というのは今でも考える。
フィクションは彼や彼女を救えただろうか。それとも、それを選ぶ程に思い詰めさせた現実の前にはそんなものは無力だったのだろうか。もし無力なら、それはthen-dさんの死が本人の意思や周囲の願いではどうにもならなかったのと同じようなものだと認識すればいいのだろうか。

CLANNAD』も『リトバス』も『AB!』も見ずに行ったキミよ。麻枝さんは今年は『Charlotte』っていうアニメに関わるそうですよ。

猫の日

猫の日であり、モーツァルトのレクイエムが流れる日でもある。

色々あって、今年は札幌でそれを聴いている。

そういえば、在りし日の交流の半分くらいは(いやもっとだろうか)はこの地から行っていたんだよなぁ、と妙な感慨を。

にゃーにゃにゃー。